忘れ得ぬ言の葉

以前にも書いたが、私が子どもの頃、すでに戦後とはいえ、何かにつけ「戦時中」の話を聞かされた。私にとって「戦時中」と言えば、それは長らく、「第二次世界大戦中」のことで、いくら教科書で現代史を習ったところで、海外の戦乱のニュースを聞いたところで、「戦時中」は「太平洋戦争」という固有名詞と強く結びついていた。

昭和八年生まれの実母は、「一生でもう一度、白いご飯を食べられる日が来るのかと思いながら」暮らしたと、言い言いしていた。

その後、韓国で暮らし、そのうちに韓国人の夫を得て、韓国人の義母と語らう日を持つと、実母より五歳年上で、昭和三年生まれの義母にとっての「戦時中」とは、「太平洋戦争中」ではなく、「朝鮮戦争中」であることを知る。

実母は「戦時中」に長野に「疎開」したが、義母は「戦時中」にソウルから南下して、大田(テジョン)のほうに「避難(疎開)」した。実母より年上なのに、義母が太平洋戦争中のことは語らず、そのかわり、朝鮮戦争のことを昨日のことのように語るので、まるで歴史の順序が逆転したかのようだった。

その「避難」の途中、すでに二十代前半だった義母は、置き去りにされた赤ん坊を見たという。義母は、根の優しい人だから、一緒に連れて行きたいと思ったそうだ。しかし、明日をも知れぬ避難の途中では、この先どうなるとも知れず、その子は後に残してくるしかなかった。いまでも、その赤子の泣き声が耳に染みついて、と義母は話した。

その赤ん坊のことを、私は時々思い出す。そして、私が健康な限り「忘れないからね」と、その見たこともない赤ん坊に、つまりは自分に語りかける。

同様に、かつてニューズウィーク日本版で見た、避難中に化学兵器を撒かれて死屍累々となったイラク山中のクルド族の写真、現在進行形のシリア内戦で、胴体から切り離されて投げ出された、まつげの長い、安らかな顔の幼子の頭部の写真、どれもこれも、あれもこれも、「忘れないからね」と自分に思う。

国際協力を仕事とする夫といくつかの発展途上国で暮らしたころ、どこもかしこも、戦争やら犠牲を伴う変革からの復興に携わる仕事であるのに変わりはないのを見て、人間はどうしてこうも、「破壊」と「再建」、「殺人」と「再生」を繰り返さずにはいられないのかと思った。人間は総体として、決して「歴史に学ばず」、そして、「自らの種を残すため、野生に従う」ことをよしとしているのか。

日本に帰った今、私は日本語教育の現場で、二十代、三十代のベトナム人、カンボジア人、アフガニスタン人の留学生たちと向き合っている。彼らには、祖国復興の一翼を担う使命があるが、そのあとの世代が、彼らの成す復興を再び「破壊」しない保証はどこにもない。

記憶は継承されないし、人間は体験しなければ学ばない、非共感の動物だ。私がこれまで「戦時中」を知らずにすんだのは、幸運に過ぎず、その未来は怪しい。それを知った上で、だが、なおも私が白墨を離すことはない。

阿部 由美子(あべ ゆみこ)

東海大学湘南校舎国際教育センター非常勤講師(日本語教育)