日本語の重要性を改めて考え直し、日本語の豊かな世界を広げる契機に

photo

帝京平成大学

現代ライフ学部教授

小野 憲一

大学生が身に付けるべきコミュニケーションに関する力

 2018( 平成30) 年3月に文化庁から「分かり合うための言語コミュニケーション ( 報告 )」の報道発表がありました。これは文化審議会国語部会の国語課題小委員会を中心に分科会でなされてきた審議経過をまとめたものです。その中で「分かり合うためのコミュニケーションとは、複数の人が互いの異なりを踏まえた上で、情報や考え、気持ちなどを伝え合い、共通理解を深めることである。これは、①言葉によるもの、②言葉の周辺にあるもの(声量や声の質、話す速度など)、③言葉以外のもの(表情、姿勢、視線など)を組み合わせて行われる」と述べ、これを前提として「学校教育でも、思考力・判断力・表現力などを重視し、主体的な対話による学び合いを目指している。学力は、一方的に教え込むことによって培われるのではなくコミュニケーションを通して築かれていくものとして捉えられるようになってきた」さらに、「大学生などの若者に向けてなされてきた近年の提言では、身に付けるべき能力の一つにコミュニケーションに関する力を掲げるものが多い」と述べられています。

リモート授業が教員と学生に与えた影響

 本学に限らず、新型コロナウイルスの感染拡大後、多くの大学でリモート授業が主流となっています。そこでは、全般的には授業や用件を成立させることが優先され、教員と学生の間のコミュニケーションにおいては、より簡潔で平易でストレートな表現が必要とされるようになっています。

 そのため、コミュニケーションにおいて「日本語」が持っている歴史的、社会的、文化的な含意が削り取られ、教員は学生と対話をすることが減り、授業を成立させるために、より平易で理解しやすい言葉を選択する場面が多くなっています。

 教員は、学生とのコミュニケーションから得られる「果実」を得ることで、より質の高い教育機会を提供できるのですが、その「果実」を得る機会を逸して困惑している状況です。一方、学生のほうも対面授業の内容と比較したときに、授業の負担感と味気なさを感じており、また、課題をこなすために疲弊しているようです。

改めて考え直すべき「日本語」の重要性

 こうした状況下だからこそ、「日本語」の重要性について改めて考えなければならないと感じます。「 言葉」は話し手を支える道具です。相手に分かるように正しい「言葉」を使う必要があります。コミュニケーションは本来、手段のみでなく、それ自体が「文化的な体験」であり、「感情の 交歓 こうかん 」「関係の 紐帯 ちゅうたい 」「表現の場」と考えられます。それらが不要なものとして切り捨てられ、合理化され、スリム化されることで、分かりやすくなったとしても、それはやはり味気ないものです。

 古来より蓄積されてきた「日本語」は繊細で、素晴らしい言語です。例えば、花の終わりに関する日本語表現は美しく、桜は「散る」、梅や萩は「 こぼ れる」、椿は「落ちる」、朝顔や菖蒲は「 しぼ む」、菊は「舞う」、牡丹や芍薬は「崩れる」、雪柳は「 吹雪 ふぶ く」、 薔薇は「枯れる」、紫陽花は「しおれる」などと表現します。この表現はどの様な過程で成立したのか、その経緯には興味が湧くところです。さらに「日本語」は、語尾変化や助詞が発達しているおかげで、複雑な思考をしっかりと相手に伝えることができます。

photo

メールの内容が読み取れない、的確に表現できない

 コロナ禍の状況下において、メールなどのテキストを通じたやり取りが増えています。現代の学生には、送られてきた文章の内容が読解できない、また、自分の考えたことを的確に表現して書けないという側面がより強く顕在化しています。

 学生はSNS などのプライベートなツールによって日常的に文章を書くことが多く、自分たちの身近な範囲で用いるコミュニケーションで誰とでも繋がれるという便利さや気軽さを最優先してしまっていると思います。しかし、大学という最高学府においての教員と学生とのコミュニケーション力のレベルや、 社会に学生を送り出す教育的観点から考えると、それだけでは不十分です。

 例えば、手紙やメールで重要な用件について依頼したりお願いしたり、言葉の上で感謝を伝えたりする文章には形式的な敬意が含まれているので、ある程度相手のことが分かります。また、言いにくいことを伝え、相手の事を思い遣ることによって心理的な負担を和らげ、円滑なやり取りや合意がなされることもあります。友人などとの直接的なコミュニケーションだけでは、そうはいかないのではないでしょうか。しかし、現在は、そうしたやり取りは形式張って面倒くさいと言った風潮があるようです。

それでも日本語の豊かな世界は失われない

 ただ、そうは言ってもすぐに「日本語の豊かさ」が失われるわけではないと思います。想像力をもって相手の世界に思いを巡らせること、つまり、自分が相手にどのように見えるか、自分の思いや考えをどうすれば相手に伝えられるのかと試行錯誤することにより、「日本語の豊かさ」は維持されるのではないかと考えます。

 全国の教育現場において、対面授業や直接的なコミュニケーションが制限されてしまったことにより失われてしまったものは何かを考えるより、これまでのコミュニケーションに含まれていた「日本語の豊かさ」とはどういうものかを考えてみるべきではないでしょうか。そうする良い機会が得られたと捉えるべきです。

 改めてデジタルインターフェイスの向こう側にいる相手を想像し、何かをより深く相手に伝えるためには、自分はどんな「日本語 ( 言葉 )」を使えばよいのか、そういう切実さをもった姿勢をこそ大切にするべきではないでしょうか。

 日本は、この新型コロナウイルスによって多大な環境変化を余儀なくされましたが、「日本語 ( 言葉 )」を使い、相手とコミュニケーションを取ることは、日本語の豊かな世界を広げる契機とすることもできるのではないでしょうか。そのために「日本語検定」の果たす役割は大きいと考えます。

小野 憲一(おの けんいち)

1962 年大阪生まれ京都育ち。高校教員として勤務し、その後、龍谷大学大学院文学研究科教育学専攻の修士課程を修了し博士課程満期退学。現在、帝京平成大学現代ライフ学部児童学科教授。専門は教育学・キャリア教育。大学に入学し「教員になりたい」という強い意志をもつ学生を支援する中で、自ずと育っていく「力」、その「力」のバロメータとして、小学校・特別支援コースで「日本語検定」を取り入れている。