令和2年(2020年)春号 ごけんメッセージ

ことば旅の歓び 中西 進

 2019年9月、『万葉集』研究の第一人者にして、新元号「令和」の考案者とされる、中西進先生が、日本語検定委員会の活動に賛同され、特別顧問にご就任いただくことになりました。そこで今号では、『万葉集』をめぐる「ことば旅」を通じて、学びの本質や言葉をいとおしむ大切さについて考えさせられる、珠玉のエッセイをご寄稿いただきました。

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 現代の文学作品でも、古典でもいい。ことばの奥に秘められた信号をよみとき、ついに文章の真髄にふれるまでの旅は、大きな感動を読者に与えてくれます。
 読書とは、そのような歓びにみちた、「ことば旅」のことです。
 その一例を述べましょう。
 『万葉集』の冒頭近くに、皇子二人が一人の美女を争った時の歌があります。兄を中大兄なかのおおえ(のちの天智天皇)弟を大海人おおあま(のちの天武天皇)といい、美女とは額田王ぬかたのおおきみのことです。
 ところが大海人がいち早く王の心を得ていたのに、中大兄はなかなか諦められません。そこで中大兄は、思わず「昔も山が妻を争ったという。今の世も変らないことだ」と嘆きました(巻1一三番)。
 そしてこの長歌につづいて、

 わたつみの 豊旗雲に 入日
 今夜こよひの月夜 さやけかりこそ
       (巻1一五番)


という短歌をよみます(海上の豊かな横雲に落日が輝き、今晩の月は清らかであってほしい)。
 はて、そうなると失恋の嘆きと今夜の月とは、どう関係するのでしょう。のみならず二つの歌の間には、じつはもう一首、上に述べた山の妻争いの時「印南いなみの野(兵庫県)に仲裁役の太陽神が来た」という短歌があるのです。
 ややこしいですね。しかしそここそがことば探険の旅の始まりです。
 まず他の類型を探します。するといつも事件は、色いろに語り伝えられ、たくさんの話の断片が残されていることが解ります。
 その中で、第一の長歌は中大兄の悔しさ、第二の短歌は山争いに仲裁役が来た時の歌だ、となる。
 では上にあげた第三の豊旗雲の歌はどう物語に介入していくのか。
 じつは中大兄一行は、いま大軍を率いて新羅・唐の大軍と決戦すべく朝廷をあげて瀬戸内海を西下しています。その一行に額田王も同行して、四国の熟田津においては船団出港の時を占って大号令を発しています。
 その途上、まさに印南の沖合いを航行する中で、中大兄がこの一首をよんだらしいと、今まで理解されてきました。しかし平凡に単に「落日が美しいから今夜は月夜でしょう」では、せいぜい、「夜の航海も何とかなるでしょう」でしかない。それでよいのか。
 そこでこの先のことば旅を、わたしは次のように辿りたい。鍵は原文にあります。

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 この万葉歌の原文は、

 渡津海乃 豊旗雲尓 伊理比沙之
 今夜乃月夜 清明己曽


と書かれています。これを見ると全体の文字遣いは不統一です。「いりひさし」というところは仮名一つに一文字ずつ当てていますから「さやけかりこそ」も仮名一つを一文字で書くのがふつうでしょう。とくに清明と書くのは、全体と釣り合わない。
 そもそもこの歌は落日から夜の航海の可否を占ったと思われますが、それは可。月光は航海に問題なし。
 そしてさらに月光を「清明」だと占ったのです。
 では清明とは何か。「清明」は、月が清明だというのみならず、じつは戦勝の兆しでした。
 「清明」とは上帝に勝利を報告することだからです。中国の聖典『詩経』(大雅、文王之什、大明)に、それが見えます。

 大商ヲ肆伐しばつシ 朝ニ会シテ清明ス

 周がかの大国、商(殷)を征伐して諸侯が廟(朝)に会して上帝に勝利を告げた(清明した)、という一節です。
 つまり万葉の筆者は清明を日本語の「清らかさ」にあて、裏に戦争の勝利を暗示しようとしました。旧王朝を倒し、新王朝を樹立したほどの戦いの勝利です。
 「こそ」という願望は、同じく王が熟田津で「今は漕ぎいでな」といったのとひとしい、女軍めいくさ(軍団に加わって占をもって戦う集団)としての告知です。
 もちろん歌は額田王の作。一大長編の額田王をめぐる歌物語の断片が、ここに集合していたのでした。
 そうなると、国家の勝利は中大兄政治の成功となり、小さくは中大兄の恋の勝利にも連なってきますね。
 中大兄も負けてばかりはいない。額田が中大兄を待つ歌も、巻四に残されています。
 以上を正しい『万葉集』の訓み方だとすれば、この正解への切符は「なぜここだけ清明と漢字で書いてあるのだろう」という、ほんとに小さな疑問から、手に入れることができました。
 小さなヒントは、何事をもゆっくりと味わい、ことばをいとおしむ、そんな日常から発見されるものです。

中西 進(なかにし すすむ)

 1929(昭和4)年8月21日生まれ。
 東京大学文学部卒業。同大学院修了。
 62年文学博士、刊行の博士論文『万葉集の比較文学的研究』により、読売文学賞、日本学士院賞受賞。
 その後の研究活動で、和辻哲郎文化賞、大佛次郎賞、菊池寛賞などを受賞。
 2013(平成25)年文化勲章受章。
 筑波大学教授、国際日本文化研究センター教授、大阪女子大学学長、京都市立芸術大学学長などを歴任。
 現在、京都市中央図書館長、富山県高志の国文学館館長などを務める。

 主な著作に『中西進 著作集』(全36巻、四季社)、『日本人の愛したことば』『ことばのこころ』『上代文藝に於ける散文性の研究』(以上、東京書籍)などがあり、近く『卒寿の自画像―わが人生の賛歌』が東京書籍から刊行される。