オンラインや映像授業は教室よりも「語り」が難しい?

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代々木ゼミナール

教育事業推進本部 本部長

佐藤 雄太郎

 いつもであれば、卒業式や新年度に向けた諸々の準備が各地の学校で進む2月下旬ですが、今回はいつもと違う春休みや新学期を迎えることになりました。新型コロナウイルス感染症拡大に伴い、全国の小学校・中学校・高等学校では、春季休業を含む3月19日まで休校となり、その後、4月7日と17日に「緊急事態宣言」が全国に拡がり、最長では5月末日まで休校を延長する事態となりました。

 この長期の休暇により、多くの学校では、教員と生徒(児童)が向き合う、いわゆる“対面授業” が実施できず、《オンライン授業(画面上で行う対面の授業)》や《映像授業(学校等の設備で収録された授業)》に代えて、3月に途切れかけた授業が継続されてきました。

 さて、小生は、全国の高等学校に訪問する機会が多くあり、今は電話やメールを通じたやり取りですが、最近では、映像やオンライン授業の難しさがよく話題になります。例えば、映像授業ですと、教室授業より準備が大変であるとか、教材や板書の扱いが違うため進みが悪いなどあるようです。また、目の前に生徒がいない授業は、反応なしの「淡々と語るだけ」となり、生徒の理解度が把握できず、説明がわかりにくい場合もあるようです。

 一方、オンライン授業は、映像授業とは違う点で苦労があるようです。ある教員と電話をしていた時に、「オンラインと言ったって、画面上に代えての授業だから、普段と変わらないよ」と言っていたのですが、いざ終えると「いつもの3倍くらい疲れた」とヘトヘトになったのだとか。慣れない授業の上に、クラス35名一人一人と向き合わなければならず、いつも以上に伝えることが多かったということでした。なるほど、教室の場合、板書や教材の読み上げ、見回り(机間巡視)があるので、生徒一人一人に向き合う時間は総じて少なくなります。しかし、オンラインの場合、画面上に1対35の状態で生徒の顔が映る、まるでミシェル・フーコーの言う「パノプティコン(*)」のような緊張感があります。画面上には教材しか映っていないのかもしれませんが、生徒の様子が教室のように全体俯瞰ではなく、一人一人の表情となるため、教員からすると、いつも以上に35名と向き合い、語りかける必要もあるのでしょう。

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 コロナ禍において教室授業の代替で始まった映像やオンライン授業。生徒と教員の双方向に密なコニュニケーションが取れる点では、何となく、教室授業に優位さを感じてしまいます。ただ、「伝える」や「語り」という点で授業に集中させ、聞かせることができるのは、意外にも、教室以上に伝える工夫や仕掛けが求められるオンラインや映像かもしれません。

 ただし、そのためには、教室での授業以上に、「伝える」「語る」に工夫が求められそうです。ここでは「授業」という“たとえ” でしたが、学校に限らず、映像やオンライン上において何かを「伝える」ということは、実際の対面以上に日本語力が問われ、また、自らの「伝え方」「語り方」を見つめ直すよい機会になるのかもしれません。

*パノプティコンとは18 世紀末にベンサムが考案した監獄モデルで、中央の高い監視塔から監獄のすべての部分が見えるように造られた円形の刑務所施設のこと。囚人は看守から常に監視されていることを意識しているが、看守の様子は知ることができない。フランスの哲学者であるミシェル・フーコーは、『監獄の誕生――監視と処罰』(1975)のなかで、この原理が規律や矯正の権力技術として近代社会全般に応用されていると指摘した。

佐藤 雄太郎(さとう ゆうたろう)

2008年入職。校舎勤務を経て2015 年から教育総合研究所所長、2019年より現職。現在は、研究(教育総合研究所)・開発(教育事業推進部)・学校営業(学校法人営業推進部)各部門の統括を担当。全国の高校や大学等で講演活動も行っており、専ら大学入試改革関連した内容が多く、2019年度は80会場近くで実施。