『戦国策』魏策より。三人が口を揃えて 市 に虎が出たと言えば、事実でなくとも信じられてしまうことから、噂が大勢に語られるうちに真実と思われてしまうこと。人質として 邯鄲 へ出向くことになった魏の国の重臣 龐葱 は、出発前にこの話を引き合いに恵王に釘を刺したが、 讒言 を聞いていた王は帰国した龐葱に会おうとしなかった。
院生時代、好んで試験監督のバイトを行っていた。
面白いのは断然、入試よりも学部生の定期試験である。いつまでも騒がしい学生側と、それを静めるべくそれぞれに 猛 る監督責任者の攻防も見どころだが、巡回するうち「生物には脳の消費エネルギーを減らすため、自分で思考せず他の個体の行動に倣う習性がある」など知見が広がるのも楽しい。従って、高校教師時代も一番好きな業務は試験監督だった。不審な動きを牽制しつつ机間巡視をしていると、皆が「-√6」と導く問いに一人、「√6」と記す生徒がいる。
「一人だけ√6と答えている子がいましたよ。一問目からこれじゃ先が思いやられますね」
仲良しの数学教師に回収した答案を渡しつつ軽口をたたけば先方、悲しげにほほえみ「√6が正しい」。平均点を聞きそびれたのが悔やまれる。
さて、職場を大学に移した現在、悩みの種はあまりにも多くの学生が「皆がAと言っている/思っている/感じている」、「テレビでAだと言った」ことと「実際にAである」ことを同一視していることである。
そこで毎年、「50代以上の8割は体罰を行わなければ子どもが向上しないと考えている」と嘘八百の例文を見せ、大勢の考え=真、ではないことを実感させている。ところが、ある年「この考えも正しいのですか?」の問いかけに対して、とりわけ不成績な一団が「8割もがそう言ってるんならそうだと思います」と真面目に答えるので閉口した。
「じゃ、次から鞭でも用意して間違うたびにぶってみたら、皆さん向上するんですか?」
これに失笑したのはクラス唯一の秀才。肝心の一団は「その手があったか」と言わんばかり蒙を 啓 かれた顔をしている。
動物園を脱走したライオンと、スーパーを占拠する熊。片やフェイクニュース、片やリアルの出来事が一律にSNS経由で突きつけられ、何が本当かさっぱりわからない。
だから支持者の数を信頼性の指標にする、と決めた集団にそれではダメだと吠えるのは当方一人。どう考えても分の悪い戦いが今年も始まる。
香山 幸哉(かやま ゆきや)
日本語検定公認講師
専攻は歴史学。文学修士(慶應義塾大学)。2017年から日本語検定公認講師。
高校教員(国語科)を経て、現在は複数の私大で日本語、文章指導の講義を行う。