日本語クリニック

 動詞「わかる」(筆者はかな書きします)について、特にコミュニケーションの観点から問題になる点を検討します。

応答する

 筆者の手元には「上司の指示に、今たいていの社員は「わかりました」と応じる。よほどしつけのいい店員ででもないと、客に対してさえ「わかりました」で間に合わせる。「かしこまりました」ということばもまだ細々と生きてはいるが」(中村(1993、p.8))や「最近、当たり前のように使われる『わかりました』は敬語ではありません。せめて『承りました』とか『承知いたしました』を使うようにしましょう」(「テレビ敬語の研究」『放送文化』36、1997。柴田武(1918~2007)による)といった1990年代の指摘があります。「わかりました」と同程度の丁寧さを持つ「了解しました」も、よく批判の的になります。「かしこまりました」や「承りました」を覚えるのが王道でしょうが、敬語が苦手だからこそ「わかりました」などを使うわけですから、そういう人にとっては、「はい、持ってきます」「はい、そのようにします」など、別の表現で丁寧さを示すほうがハードルは低そうです。

否定する

否定するとき、常体では「わからない」(くだけた言い方は「わかんない」「わかんね(え)」など)、あるいは西日本的な言い方が現れて、「わからん」となります。東日本では「ない」、西日本では「ん」という基本的な対立が背景にあります。
 敬体では「わかりません」あるいは「わからないです」となります。「~ません」については、「「~じゃありません」は、特に西日本では、きつく聞こえることがある。「~じゃない」や「~じゃないです」は使われても、「~じゃありません」は使われない地域があるからである」との指摘があります(野田(2005、p.4))。「~ないです」であっても、口調によってはピシャリとはねつける印象が出るため、否定的な答えを返す際には、口調や表情、前置きのことばなどを工夫することが大事なポイントです。なお「~ている」形の否定は「わかって(い)ない」「わかって(い)ません」「わかって(い)ないです」となります。
 授業中の教師と生徒というように、ある程度の緊張関係が想定される場面には、否定表現を巡り、いくつか問題が潜んでいます。生徒がよく考えることを教師側で望む場面では、すぐに「わかりません」と答える生徒に教師が不満を覚え、テンポのよいやりとりを教師が望む場面では、生徒の沈黙時間が長いことに不満を覚えて、教師が「わからないならすぐにわからないと言ってください」と促すこともあります。教師にインタビューした結果を記す石井(2022、p.34)によれば、現場の教師から次のような声が聞かれるとのことです。

かつては学力のない子供であっても、それなりに自分の意見を持って、言葉で主張することができたそうだ。だが、最近では物事を考えるというスタートラインにすら立とうとしない子供が多く、教員の側が促しても「無理」「わかんない」と言って黙りこくってしまうという。考えた結果としてわからないのではなく、そもそも思考することを諦めてしまっているのだ。


 教師の側が「あせらなくていいよ」などと声をかけたり、すぐに答えられないなら「次の人に回してください」と言ってもよいと伝えたりすれば、生徒の側の緊張はほぐれます。その一方で、生徒のほうでは、指されても返事をせずに黙ったまま下を向くということではなく、まず「はい」と返事をし、即答することが難しければ、「ええと」などの感動詞を使ったり、首をかしげたりするなどして、考えている最中であるというサインを送ることが必要です。

内容の問題か自分の問題か

 本の内容などについて、「わかりやすい」ことが世の中で求められ、「わかりにくい・わかりづらい」ことは敬遠されるようになりました。もっとも、「内容そのものが高度なものであり、容易に近づくことができないもの」である場合と「内容は難しくないが、それを説明することばが難しい」場合とを区別する必要があります。「わかりにくい」は、二つ目の場合に用いるべきであり、一つ目の場合は「難しい」が適切です。ところが、どちらの場合も「わかりにくい」を使う人がいます。「難しい」と言えば、自分自身の理解力の問題になりますが、「わかりにくい」と言えば、責任は、自分でなく相手にあるということにできます。わかりやすく話す(書く)努力が要るのと同様に、話を聞く(読む)側にも、わかろうとする努力が要ります。

命令する

 「見る」のような自分の意志で行う動作の場合、「見ろ」「見るな」「見たい」といった表現が可能です。「わかる」の場合、「わかれ」「わかるな」「わかりたい」が可能かどうかが問題となります。「フランス語ができる」(静的な述語)という意味であれば「フランス語がわかるようになりたい」とするのが自然である一方、「相手の気持ちを理解したい」(動的な述語)という意味では「相手の気持ちがわかりたい」という使い方も出てくるようです。意味による使い分けはせずに「わかるようになりたい」で統一することも可能です。なお「できる」には「できたい」がなく、「できるようになりたい」を使います。
 命令形の場合、自分の意志で「わかる」状態になるわけではないため不自然であるというのが原則的な見方であり、森山(2017、p.138)には、「「わかれ!」は「わかるように努めること」として拡張的に解釈したとしても言いにくい」という指摘があります。その一方で「「それぐらいわかれよ」や「落ち着け」はわかった状態や落ち着いた状態になることではなく、そうしようとすることを命令しています」というような指摘もあります(山田(2004、p.125))。「わかる」の命令形を使用可能と考えるべきか、あるいは、「よ」があれば使えると考えるべきでしょうか。
 筆者が観察するかぎりでは、親が子を叱る場合、友達が友達と口論の中で使う場合、恋人が相手に別れ話などの中で使う場合などに「わかれよ」が出てくるようです。創作物にも範囲を広げるなら、「おまえもいいかげんわかれ」(アニメ『ワンピース』シーズン10の50)や「医者ならわかれ」(BBCのドラマ『シャーロック』吹き替え、シーズン4の2、シャーロック→ワトソン)のように、「よ」なしで「わかれ」単独で使われる例もあります。現実の社会において使われる「わかれ(よ)」の使用がフィクションにおける使用を招いたのか、またはその反対か、英語などからの翻訳の影響か、といったことは改めて検討する必要があります。

「わかれ(よ)」の使用動機

 筆者は、2023年12月に東京と山梨の大学生106人に対し「わかれ」に違和感があるか否かについての課題を出し、以下の結果を得ました。

違和感がある(52人)
違和感がある。ただし「わかれよ」なら許容できる(18人)
違和感がない(36人)

 「わかる」ことは自身でコントロールすることができません。その点が気になれば、「わかれ」には違和感が生じます。しかし、乙と丙の数が決して少なくないことは、文法的に考えて、「わかる」の命令形は使えないと断じることをためらわせます。「わかれ(よ)」の使用動機は何でしょうか。
 「わかる」と似た意味の動詞「理解する」の場合、「理解しろ」に(それほど)違和感が伴いません。理解していない状態から理解した状態へと変化することを促すために「理解しろ」と相手に命じる表現として解釈されます。「いいかげん話を理解しろ」のように、聞きわけのない相手に向かって、いらだちを伴いつつ使われるという点は、「わかれ」の場合と共通します。そうすると、「わかれ」の場合も、わかっていない状態からわかった状態へと変化することを促すために命令形が使われると捉えられます。変化を表す変化動詞として使われているという解釈です。変化した結果の状態は、「何度も言うな。わかっている」(敬体なら「わかっています」)のように「~ている」で表され、「理解している」と同様です。

「理解する」と「わかる」の違い

 「フランス語がわかる」のように、「わかる」(敬体は「わかります」)には状態を表す用法がある点が「理解する」とは異なります。「わかる」は、「ている」がなくとも単独で現在の状態を表すのに対し、「理解する」で現在の状態を表すには「理解している」という形をとる必要があります。
 状態動詞の用法の「わかる」では、「フランス語がわかれ」などということがありません。これは、「フランス語ができる」を「フランス語ができろ」とは言わないのと同様です。それゆえ、ほかの用法においても「わかれ」の形は不自然であると解釈したくなる可能性があります。
 ここまでをまとめると、「理解する」は変化動詞(動的な述語)としての用法のみを持つ一方、「わかる」は状態動詞、変化動詞(静的述語と動的述語)の両方の用法を持つという差があり、このことが「わかれ(よ)」の使用にブレーキをかける結果を招いているように見えます。

まとめ

 「理解しろ」と同じような使い方が可能なはずであると考える人は、変化動詞として使う「わかれ」をよしとします。それは、意味としては、事情、気持ちを「察しろ」「くみ取れ」という場合に近いものであり、能力を持つこと(フランス語がしゃべれるようになるなど)を要求しているわけではありません。一方、「察しろ」などに近い意味での使い方を「わかる」が持ちうることを否定はしないものの、「わかる」単独では、命令形で使ってよいかどうかについて自信が持てないという人は、「命令・依頼の気持ちをややつよめていう」(『新選国語辞典 第10版』)意味を持つ「よ」による補助があることで、「わかる」を命令表現に使うことに対する違和感が和らぐこととなります。たとえて言えば、「よ」という助詞が命令形の使用にためらいを覚える人の背中を押してくれているようなものです。
 「わかれ(よ)」という言い方は、比較的に新しい言い方である可能性もあり、違和感のあるなしについては、世代差も含め、より詳しい調査を要します。
 命令の「わかれ(よ)」や禁止の「ふざけるな」といったことばは、相手にいらだちを覚えたときに使うことばです。これを「いらだち語彙(ボキャブラリー)」と名づけることとします。ふだんの生活の中で、いらだちを積極的にことばにする人が周りにいるか本人がそうであるかすれば、これらの言い方になじみも出ますが、そうではなければ、表現に対する違和感が先に立つこととなるでしょう。いらだち語彙の範囲と詳細を詳しく調べれば、いろいろおもしろいことが見つかるかもしれません。

参考文献
石井光太(2022)『ルポ 誰が国語力を殺すのか』文芸春秋
中村明(1993)「日本語が失ったもの」『国文学 解釈と教材の研究』38-12
野田尚史(2005)「コミュニケーションのための日本語教育文法の設計図」『コミュニケーションのための日本語教育文法』くろしお出版
益岡隆志、田窪行則(2003)『基礎日本語文法 改訂版 第15刷』くろしお出版
森山卓郎(2017)「意志性の諸相と「ておく」「てみる」」『語彙論的統語論の新展開』くろしお出版
山田敏弘(2004)『国語教師が知っておきたい日本語文法』くろしお出版

中川秀太

文学博士、日本語検定 問題作成委員

専攻は日本語学。文学博士(早稲田大学)。2017年から日本語検定の問題作成委員を務める。

最近の研究
「現代語における動詞の移り変わりについて」(『青山語文』51、2021年)
「国語辞典の語の表記」(『辞書の成り立ち』2021年、朝倉書店)
「現代の類義語の中にある歴史」(『早稲田大学日本語学会設立60周年記念論文集 第1冊』2021年、ひつじ書房)など。

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