日本語クリニック

 中川と言います。これからこちらのコラムに日本語について記していきます。
 日本語に関心がある、あるいは、日本語の使い方について日々悩むことがあるという母語話者および非母語話者のために書きます。
 日本語がよりよいものになるよう、皆さんとともに考えていければと思います。

 職員室から出るときには「失礼します(失礼いたします)」ではなく「失礼しました(失礼いたしました)」と言うように学校の先生に教わりましたが、そのような文法的な決まりがあるのでしょうか。大学生から、このような質問を受けることがあります。

 結論を先に言うと、入室の際は「失礼します」のみが使え、退室の際は「失礼します」も「失礼しました」も使えます。

 あいさつことばとしての「失礼します」は、「入ります」または「出ます」ということを目上の相手に宣言するサイン(しるし)として使われます。一方「失礼しました」は、用件が済んだ、手間を取らせた、ということを丁寧に伝えるために用いられます。したがって、退室の際に「失礼します」と「失礼しました」のどちらを使うのかは、そのときの話し手の気持ちによって本人が判断すればよいということになります。

 それでは、なぜ学校の先生は、「失礼しました」を使うべきだと考えるのでしょうか。以下では、その理由として三つを取り上げ、その課題を考えてみます。

 まず、「失礼します」が退室の際のあいさつとして使えるということを知らないという先生がいるかもしれません。その場合は、たとえば国語辞典で、「「失礼します」の形で、目上の人の居る場所に入ったり、退出したりする時に言う挨拶の言葉」(『大辞林 第4版』)という「失礼」の語釈を確認してもらえれば、「失礼しました」にこだわらずともよいことに気づけるでしょう。

 次に、「失礼します」の上記の使い方は知っているものの、それでも「~た」の形で用件が済んだことを明確にすべきであるから、「失礼しました」というほうがよいという考え方について検討してみましょう。確かに、「失礼しました」と言えば「用件は済みました。以上です」という内容が表現できるのに対し、「失礼します」では表現できません。ですから「失礼しました」のほうがふさわしいと考えたくなりそうです。しかし、そのような内容は、果たして「失礼しました」を使って言い表さなければいけないことなのでしょうか。「伺いたいことは以上です。ありがとうございました」または「ご迷惑をおかけし申し訳ございませんでした」などと表現すればよいことであり、退室そのものを表すあいさつとしては「失礼します」を使えばよいと考えることもできます。「ありがとうございました」や「申し訳ありませんでした」に続けて「失礼しました」とするのでは、「~た」が連続し、そのことに違和感を覚える人もいることでしょう。

 最後に、先生に時間をもらったことなどについて、「失礼しました」で恐縮する気持ちを言い表すべきであるという見方について考えます。この場合、「お手間をとらせました。恐れ入ります」や「お手数をおかけし恐縮です」といった表現ではなく「失礼しました」を使わなければならないとする根拠が必要となります。恐縮の気持ちは、これらの言い方で表し、退室そのものの宣言は「失礼します」で表すという方法が考えられるからです。「恐れ入ります」や「恐縮です」よりも「失礼しました」が丁寧な表現であるということはありません。あるいは、「お手間をとらせました。失礼しました」と表現し、退室の直前に「失礼します」と表現することも可能でしょう。しかし、退室のあいさつことばが「失礼しました」に限られると考えてしまうと「お手間をとらせました。失礼しました」と述べたあとに再度「失礼しました」と言わなければいけなくなりますが、これはいかにも不自然です。

 以上をまとめると、「失礼します」は、「入ります」「出ます」ということを宣言するあいさつことばであり、入退室いずれの場面にも使えることばであるのに対し、「失礼しました」は、会話の中で恐縮する気持ちを表すことばとして用いられる一方で、退室の際に「用件が済んだ+手間をとらせた+退室する」の意味をひとまとめに表現することばとしても用いられている、ということになります。

 ひとまとめに表現するということは、それが最優先の言い方であるという結論には直結しません。用件が済んだことや手間をとらせたことなどは、別の言い方できちんと口に出すという考え方もできるからです。したがって、子どもたちに教える立場にある人間としては、退室の際の表現として、必ず「失礼しました」と言いなさいと指導するのではなく、「失礼します」のほかに「失礼しました」という選択肢もあるということを紹介する程度にとどめるというのが無難な行き方でしょう。

中川秀太

文学博士、日本語検定 問題作成委員

専攻は日本語学。文学博士(早稲田大学)。2017年から日本語検定の問題作成委員を務める。

最近の研究
「現代語における動詞の移り変わりについて」(『青山語文』51、2021年)
「国語辞典の語の表記」(『辞書の成り立ち』2021年、朝倉書店)
「現代の類義語の中にある歴史」(『早稲田大学日本語学会設立60周年記念論文集 第1冊』2021年、ひつじ書房)など。

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