『列子』湯問より。琴の名手 伯牙 が、演奏に込めた心情を毎度言い当てるほどの理解者であった親友 鍾子期 失い、もはや自分の音を理解する者はいないと琴の弦を切った故事から、心の通じ合った親友のこと。
旋律から奏者の意を汲むのは至難だろうが、自然言語もまた通じ合いは難しい。
出張先で立ち寄ったパン屋にて、何を買おうか思案していると、「お父さん、ここはタイムのフォカッチャがいいのよ」という歯切れのよい声がした。振り向けば共白髪のご夫婦の婦人の方が「これだけ量があってね、たったの220円」、「タイムがずいぶん散らしてあるでしょう」など店員に代わり能書きを述べている。トレーを持ったご夫君と共に拝聴するうち、話者の目尻に険が浮いてきた。婦人、ついに連れ合いの脇腹を小突き、「さっきからそのフォカッチャがいいって言ってるじゃありませんか」と一喝する。
いい、とはそれを買え、の意なのである。ようやくそれと解しトングを操るご夫君。その間に隣の総菜パンに目を留めた婦人、次は「あ、お父さん。これとそれが良さそうね。この二つを買って半分ずつにしましょうか」と 宣 う。疑問の体を取ってはいるが、彼女の中で購入と分割は決定事項であることはさすがのご夫君も察知した模様。「ああ、何でもお前の気に入るようにしよう」と不器用にトングを使う彼を監督する婦人の眼光、鋭きこと尖った肘のごとし。彼の危惧する通り、ぐずぐずしているとまた小突かれるのであろう。
ところで、理解者を失ったからと愛器をわざわざ破壊する心理とはいかに。その瞬間を題材にした絵画や像は多数あり、教職課程時代に模擬授業で「知音」を扱った際、指導教員から紹介された伯牙像は仁王のごとき憤怒の表情を浮かべていた。
さもありなん。ある年、Web提出された無題のレポートにワードの校閲機能で吹き出しを付け、「冒頭にタイトルをつけましょう」とコメントした。が、次も一行目から本文が始まるので、講義にてタイトルをつけるよう全体に注意喚起をする。すると、その次の答案は「第七回課題」と一行目の中央に記してある。「これは課題名です。内容を端的に表すものを自分でつけること」と吹き出しをつける。次回作の冒頭は「第八回課題」。
我慢の限界に達し、「貴君、なぜコメントを無視するのです」と当人を掴まえて面詰すれば、「へっ、コメントって何すか」という返事。当該学生は返却された答案をスマホで確認しており、それでは校閲機能の吹き出しが表示されないのである。
コメントが死蔵されたスマホ画面を睨む我が形相、仁王のごとし。「通じない」とはこれほど腹の立つことなのである。発する側の自負が強ければ、なおさら。
香山 幸哉(かやま ゆきや)
日本語検定公認講師
専攻は歴史学。文学修士(慶應義塾大学)。2017年から日本語検定公認講師。
高校教員(国語科)を経て、現在は複数の私大で日本語、文章指導の講義を行う。