出典は漢籍でございますが

風声鶴唳 ふうせいかくれい

晋書 しんじょ しゃ 玄伝 げんでん より。 肥水 ひすい の戦いで謝玄の率いる 東晋 とうしん 精鋭軍に撃破され、浮足立った 前秦 ぜんしん 軍が、風の音や鶴の鳴き声を聞いても東晋軍の攻撃だと怯えたことから、臆病風に吹かれ、わずかな物音にも怯えること。

 得体の知れぬ音には人を疑心暗鬼に陥らせる効用がある。

 夕闇迫る都心の一等地で、所用の帰りに信号待ちをしていた時である。突如、暗がりから場ちがいな当方を嘲笑うがごとく、「けーけけけけ」なる奇声が聞こえた。むっとして街灯を頼りに見わたせば、行き交う車の向こう側にスキンヘッドの人影が見える。はて、こやつの哄笑とも思えぬが。首を傾げるそばからまたも、けーけけけ。しかも、走行音に紛れて捉えにくいが、「いーひっひっひ」、「うっふふふふ」と笑い方にバリエーションがある。信号が青になり、音源に近づいたことで声の主が分かった。対面の輸入食品店が、ハロウィンの装飾に魔女人形を設置していたのである。

 マーケット某に告ぐ。日暮れてなお魔女による歓待を続けるなら、せめて人形をライトアップするがよい。当方は果敢に前進して840円から340円に値崩れしたターキーを買いこんだが、人によっては闇が発する笑声に恐れをなして逃げ帰るはずだ。

 笑い転げる魔女三体も姦しく迷惑だが、その比でないのが学生の私語である。当方が単位という生殺与奪の権をにぎる正規コマでは、墓石さながら沈黙する彼らも任意受講の短期講座では一転、気随な振る舞いに及ぶ。

  こと にひどいのは、「出席は強要するが単位は出ない」というタイプの講座である。学部全体を対象とする場合、出席者は数百に至り私語の量もそれに比例する。人によっては大声一喝して黙らせるのだろうが、当方の性には合わない。こちらはもっとスマートな手法でゆく。具体的には、「相方のリンちゃん」と名付けた仏壇用のおりんを持参し、講義の 勘所 かんどころ へ来たところでチーンと鳴らすことにしている。

 昼休みの食堂顔負けのざわめきに小さく、しかし確かに波紋を広げる金属音。何事が起きたかと、 雑駁 ( ざっぱく ) な音を飛び交わせていた口が一様に動きを止める様は壮観だ。この隙を逃さず講義を進めてやれば、気を取り直した学生、負けじとおしゃべりを再開する。

 そして再び講堂に響く、「チーン」。さすがは仏具の貫禄と言おうか、上等の真鍮は学会用のプレゼンタイマーとは音の浸透具合がちがう。しばし漂う厳粛な空気に己を顧みる気になるのか、何食わぬ顔で仏具をチョークに持ち替える当方に底知れぬものを感じるのかは知らない。以降、室内は相対的に静かになり、粛々と講義を進められるのである。

香山 幸哉(かやま ゆきや)

日本語検定公認講師

専攻は歴史学。文学修士(慶應義塾大学)。2017年から日本語検定公認講師。
高校教員(国語科)を経て、現在は複数の私大で日本語、文章指導の講義を行う。