
『春秋左氏伝』襄公八年より。常に濁っている黄河の水が澄むのを百年待ち続けるように、いくら待っても実現のあてのないこと。春秋時代、楚に攻められた小国の鄭で、降伏か晋の援軍を待つか議論した際、降伏派が引用した古い詩の一節、「河の清むを俟つも、人寿幾何ぞ」から。
自然現象に限らず、改革の望めない事態はある。
知人と入った中華料理屋で、隣の卓が女子会をしていた。大層よく通る声で一人が語るところによると、彼氏に共感力がないらしい。どれほどないかと言うと、彼女が泣いて仕事の辛さを訴えても解決策を述べるばかりで、「大変だね」の一言が決して出ないとか。
こんな人との子育てが不安だ、と独演はヒートアップする。共感はこうして外で求め、彼氏に期待するのをやめては? と聴衆から至極理に適った提案がなされるも、「子どもの問題は外で話せないでしょ! 万引きしたとか」、と生まれてもない子の不品行を案ずる弁士、いよいよいきりたつ。再犯防止策よりも「大変だね」の一言を重んずるとは面妖な。あきれていると、彼氏はASDとの情報が追加された。知人が紹興酒にむせた。「場面緘黙の子にスピーチ強要するようなもんだよ」。なお、知人はその道半世紀の小児科医である。
無いものねだりのわからず屋には全く共感できないが、学問を通して己を向上させるべく集った学生たちのことは、理解と共感を以て応援している。
中には当方の講義が卒業要件単位にならない立場で、あえて受講する篤学の士もいる。特に、その内の一人は毎回最前列で熱心にノートを取り、講義後にはきちんと一礼して退出する模範生であった。友達と誘いあわせて受講を決める者が多い中、単身やってくる志操堅固なところもいい。なので、激励の意をこめて講義の前後に声をかければ、はきはきと感じよく応じる。
結構づくめの学生だが、その日教卓へ持参した中間テストの解答用紙に、担当教員名を「H」と記しているのが気にかかった。「O」ならわかる。登録上、本講義は専任教員のO氏が責任者だ。しかしHとは。当方はKだ。その旨彼女に告げれば「ええっ! ここ、英作文の教室じゃないんですか?」
H先生の担当は「英作文」。わが講義は「論作文」。しかも、紙のシラバスでは両講義が隣あったページに掲載されていた。誤解を誘発する環境には同情するが、英語の「え」の字も登場しない講義が二度続いた時点で疑問を抱かぬものか。
人生百年時代とはいえ、限りある生に変わりはない。濁った水に悶々とするひまに清流へ移動するのが吉と言えよう。
香山 幸哉(かやま ゆきや)
日本語検定公認講師
専攻は歴史学。文学修士(慶應義塾大学)。2017年から日本語検定公認講師。
高校教員(国語科)を経て、現在は複数の私大で日本語、文章指導の講義を行う。