
『三国志』蜀志より。蜀の劉備が、平穏な日々が続き馬に乗って戦場を駆けることがなかったため、内ももの肉が肥え太ったのを嘆いた故事から、手腕を発揮する機会に恵まれず、空しく過ぎる日々を嘆くこと。
歴史を専攻したことは、現在の仕事にどう役立っていますか? とたまに問われる。
正直、まるで役に立っていない。類感呪術。瑞兆。威信財。かつての日常語彙はみごとに使用の機会をなくし、期末試験の前夜に飲み会を企画する学生の姿に「ははあ、予祝か」と納得するのが関の山だ。むしろ害がある。構内放送の「明日以降は」を「郝懿行は」に聞き違えてぎょっとし、答案に記された「豆」の字から想起するのは、食料ではなく中国古代の高坏である。師の板書によれば、「豆」の外観は脚を生やした大豆がふんぞりかえった様に酷似している。それが答案の行間からぞろぞろ現れる。こんな発想をするのも、「書中自有千鍾粟(本の中から自然に千石の米が出て来るぞ)」と説く「勧学歌(by宋の真宗)」を知ってしまったからである。食料自給率に関する出題は慎重にならざるをえない。
漢籍由来の言葉の知識を活用しようにも、いかに故事成語が通じないかは第一回に記した通り。勤務先の学生には「祖父母」を「祖父の母」と認識する者がいる。こんな所で「人口に膾炙する」と口走れば、「会社」の発音がおかしい人と思われて仕舞であろう。
そんな学生たちのレポート指導が現職だが、お題は「日本は外国人にとって住みやすいか」等、経済学部生には本領を発揮しにくいものが多い。当方の数学能力では、∫やΣなどを展開された日にはお手上げなのが理由である。が、「大丈夫。僕たちだって積分なんかできません」と元気よく請け合う者がいたので、一度数式を解禁してみた。届いた答案の多くが何らかの計算式を使用していたのを見るに、やはりやってみたかったらしい。
「夫の家事時間は育児を含めて一日1.54時間である。うちの父親は40分ゲームに付き合ってくれたので、これを1時間と仮定して計算すると1.54−1で家事時間は0.5だ。」
「将来結婚したいと考える人は78%いる。女性は結婚すると仕事をやめるので、実際に結婚するのが半分と見積もって0.78×0.5=0.39。つまり採用したうちの4割しか残らない」
「結婚すると配偶者控除を得られる。収入が600万円で税率を10%とすると、60万から控除額の38万円を引いて支払う税金は22万円で済むのである」
計算うんぬん以前に事実誤認と不適切な条件設定が重なり、現実からはるか隔たった見解を述べる答案の雨あられ。これを一枚一枚正す作業は連日深夜におよんだ。まさに宋襄の仁(無用の情けをかけてひどい目に遭うこと)。おのれの愚行を表す故事成語が即、思い浮かぶのは専攻の恩恵かもしれない。
香山 幸哉(かやま ゆきや)
日本語検定公認講師
専攻は歴史学。文学修士(慶應義塾大学)。2017年から日本語検定公認講師。
高校教員(国語科)を経て、現在は複数の私大で日本語、文章指導の講義を行う。