忘れ得ぬ言の葉

暑い時節に「暑い」という言葉の話をして、なんだと言われそうだが、「暑い」のひとことを言うのにも、年季がいる。  十八までふた親と暮らした家は、郊外の住宅街の袋小路のどん詰まりにあって、その私道で砂利道の先には、春はキャベツ畑、夏はトマト、胡瓜の野菜畑が広がっていた。

袋小路の入り口から右手にうちを除いて七軒、左に奥の四軒長屋まで入れると九軒の家があり、家から出るにも家に入るにも、都合十六軒の関所があるようなもの。

当時には珍しい共働きの家庭だった我が家では、「共働きだから躾がなっていないと言われないように」と、子どもらは「とにかく曲がり角に出るまで、どなたに会っても必ずあいさつすること」と教員の母から命じられた。

女の教員など戦前からいたし、お母さんが教員で共働きの家庭など、珍しくもなんともないと思えるが、高度経済成長期を迎えてサラリーマン家庭が増えると、「有閑夫人」ではない、「専業主婦」というあり方が出現して、「あのうちは共稼ぎだから」という言い方もちらほら出てきたらしい。

とにかく、母の気苦労は察せられたから、角の手前で人に会えば、自動反射の「おはようございます」「こんにちは」である。

この袋小路の一本道も、越した当時は若夫婦に鼻水たらした子どもやら、赤ん坊やらの家庭ばかりで、自転車に荷籠を積んだあさり売りやらラッパの豆腐売りやら、移動販売の小型トラックの八百屋やらでにぎわったが、十五年も暮らすうちには、みな一緒に年をとり、物売りも姿を消し、越していく家あり、夫をなくす家あり、だった。

子どもたちも大きくなると家から出てこなくなり、たまさか会ってあいさつするのは、五十、六十の年配の顔見知りに限られ、そうすると、いつまでも小学生みたいに「こんにちは」でもないだろう、暑ければ暑い、寒ければ寒いの時候のあいさつのひとことも言えるようにならねばと気負ったのは、わたし一人の事情である。

それで言ってみたのが、十代での「ございます」系ウ音便、「お暑うございます」と「お寒うございます」。

「お早うございます」「有難うございます」の「ございます」を伴うウ音便、「おはヨウ」「おめでトウ」は、幼い頃より使い古して、いい加減飽き飽きである。新しいウ音便が言ってみたい、そう考えた。

ウ音便は、もともと近畿方言として発達したが、東京の敬語はその影響を強く受け、奥様連中の口から漏れ聞くその言葉は、山の手圏外の東京郊外でもなかなかに通用していた。

言葉から大人になる、そんな気負いと挑戦で、ご近所の年配未亡人に言ってみる。

「こんにちは。お暑うございます。」

案外、不思議な顔はされないから、次にまた言ってみる。言っている本人はこそばゆい思いだが、そうして幾星霜、いまだに口にするたび、トライアルのように響く言葉である。

阿部 由美子(あべ ゆみこ)

東海大学湘南校舎国際教育センター非常勤講師(日本語教育)