忘れ得ぬ言の葉

長い間、東京と埼玉にある大学に非常勤講師として文学を教えに行っていた。

学生に注意されて、冷や汗をかいたことがある。私の発音が悪いというのである。
「そこに<死>がありました」と言ったつもりが、学生には「そこに<詩>がありました」と聞こえたらしい。

アクセントには、若いころから苦労している。仙台は一型アクセント、あるいは曖昧アクセント地域である。仙台生まれの私は、抑揚がないというよりは、ことばの音の高低がはっきりしない。その時の気分で、適当に発音している。

たとえば「古事記」と「乞食」の発音がわからない。東京出身の友人から、私の発音では、「柿」を食べたのか、「牡蠣」を食べたのか、あるいは「カレー」を食べたのか、「鰈」を食べたのかわからない、ともいわれたこともあった。

学生時代の「国語学」(当時はそう言っていた)のアクセントのテストは、教科書を丸暗記した。今も、関東圏での講演、学会での発表、外国人の前では、頭の中で標準語のアクセントを確認してからの発話になる。

ちょっと気を許すと、上記の学生に注意されたようなことになる。授業では、言い訳をした。

「ごめん。ごめん。でも、東北では、発音のことでほとんど問題になることはない。相手の文脈を読むというか、相手の内部にわけいって一体化するというか……。とにかく東北人は偉い! 頭のいい人種の共同体かもしれない?!」

ここまで言うと、学生の方が大人である。熱くなる私をしずめようとする。

「わかりました。それでは先生、次、授業を進めましょう」

宮城県特有のことば(俚語)も普段使わないと忘れるので、意識しているつもりだ。

これも仙台市の或る専門学校に教えに行ったときのことである。小説の中で「おあがんなさい」という会話が出てきて、そういえば、最近、このような表現を耳にすることが少なくなったことに気づいた。学生に尋ねると、やはり「食べなさい」と言われる、あるいは言うことが多いと応える者が多い。

そのときである。一番前の席に座っていた学生が、つぶやいた。

「け」

一瞬、くだらない質問だという印象の反応かと思った。緊張した。

しかし、これも忘れかけていたことばである。

宮城県を含む旧仙台藩領域では、たしかに「け」ということがある。「食え」が縮まったことばだろう。急いでいるときや、冷めないうちに食べてほしいとき等には、時間短縮になる便利なことばだ。合理的なことばである。

方言は、標準語にはない意味の語彙もあっておもしろい。言語表現の多様化は、豊かな人生を送ることにも通じると思われる。

大本 泉

仙台市出身。仙台白百合女子大学教授。日本ペンクラブ女性作家委員。専門は日本の近現代文学。
著書に『名作の食卓』(角川書店)、共編著に『日本語表現 演習と発展』『同【改訂版】』(明治書院)、共著に『永井荷風 仮面と実像』(ぎょうせい)等がある。