忘れ得ぬ言の葉

冬の荒天の海で起きる漁船の海難事故の報で「乗組員○名行方不明」の言葉を聞くたび、「海の藻屑と消え」の文句が頭に浮かび、それとともに、2008年2月19日に千葉の野島崎沖でおきたイージス艦「あたご」とマグロはえ縄漁船「清徳丸」の衝突事故で初めて耳にした「浦じまい」の言葉が、必ず胸を突く。

この事故では、大破沈没した「清徳丸」乗組員の父子二名が行方不明となり、海上自衛隊や地元勝浦の漁民たちによる懸命の捜索にもかかわらず、ついにその行方が知れることはなく、事故後一週間目の2月25日に漁協は捜索を打ち切り、読経、海への献花など「浦じまい」の儀式を行った。

海難審判は結審したものの、刑事裁判は現在も係争中というこの事故について、語れるほどの何ものも持ち合わせないが、あの日、「浦じまい」の言葉をアナウンサーの口から聞いて、その言葉が強烈で強靭な印象を残した瞬間のことは忘れがたい。この儀式を執り仕切った「外記(げき)栄太郎」という組合長の名前と存在が、その印象をより強くしたことも否めない。

私たちは、ときに、自分のある思いや行いを表すにふさわしい言葉が、すでにあるという事実に慰めを見出すことがある。それは、先人の中に、同じ思いをした人々があまたいたということであり、その言葉に寄り添われるからだ。儀式もまた然りで、こんなことは、決して自分が初めて体験するのではないと人に言い聞かせるのが、儀式の役目のひとつだろう。

さまざまな思いにけじめの一歩をしるし、次の活動を始動させるために、私たちは先人が残した言葉と儀式の手順を利用する。勝浦に伝わる「浦じまい」の「しまう」という言葉を聞いたとき、「忘れる」でもなく、「捨てる」でもなく、起きた事を記憶の中に残すという思いと、一端は周囲の手で諸事を片付け、鎮魂し、海神をなだめ、「おしまい」にして、気持ちを切り替えるという、海に生きる漁師の挫けぬ強い意思を感じた。先人は、土地土地で厳しくもよい言葉を作り、残してくれた。

死を受け入れ、受け止めるのは難しい。受精の瞬間から、生物は死に向かって歩き始めるが、どの生命体も等しく死に向かうというのに、私たちの多くは、どうしても未知の体験に怯える。そのせいか、死に直面したとき、死者を弔うとき、言葉に慰められることは多い。

中学三年で、化学の先生が亡くなり、教会での追悼礼拝に参列したときに司祭の口から聞いた「ご遺族の方々はお辛いだろうが、キリスト教徒にとって、死(昇天)は喜びです」の文句。映画『フォレスト・ガンプ』の中で、死の床にある主人公の母親が諭す「死は人生の一部なの」の言葉。生きているうちには、こうして、死にまつわる言葉が積もっていく。そして、死に際して「じゃ、おれはもう死んじゃうよ」と言えた露伴のような従容がどこから来るのか、死ぬまで考え続けて生きるのだろうと思う。

阿部 由美子(あべ ゆみこ)

東海大学湘南校舎国際教育センター非常勤講師(日本語教育)