忘れ得ぬ言の葉

ホテルのビュッフェをよく利用するが、おなかがいっぱいなのに、つい食べすぎてしまう。食べものが大皿にたくさん残っていると、「もったいない」という気持ちになる。

周知のとおり、「mottainai」は、ケニア出身の環境保護活動家ワンガリ・マータイ氏が広めた。今や、世界に通じる日本語のひとつである。彼女が日本語をそのまま活かして、その精神を伝えようとしたのは、「wasteful」では再生利用、再使用、消費削減、尊敬の意味のすべてを託すことができないと思ったからとのことである。

「もったいない」とは、本来あるべきすがたという意味の「勿体(もったい)」が無い状態の意味である。「勿体」は、もともと仏教用語だった。それでは、移ろう時間の中で「勿体」をどのようなものと捉えるべきなのか。哲学的なことばでもある。

改めて、日本人の心性に関わるものや、文化、日常生活の中で、仏教由来のことばが多く使われていることに気づく。身近な食材にもたくさんある。

たとえば「がんもどき」。「丸(がん)」という料理に似せて作ったというもの、丸めた豆腐の中から昆布が飛び出た様子が、飛んでいる雁に似ている等といった諸説はあるが、おそらく「雁擬き」と捉えたものが有力な説と思われる。精進料理で、雁の肉の味に近づけて調理したものだったという。

日常的なお惣菜でいただくけんちん汁も、本来は肉の入っていない精進料理である。普茶料理の巻繊(ケンチャン)という料理が発展したものという説もあるが、建長寺の僧達が食べていた料理がルーツとなるらしい。ちなみに普茶料理は、肉や鰻等に見立てた一種のフェイク料理に特徴がある。明の隠元禅師が広めた。隠元豆、西瓜、蓮根等も同師が請来したものである。

禅宗僧堂での日々の食事は、坐禅や作務と同じように重要なものとされている。お粥とちょっとした副菜だけなので、慣れない新米の修行僧の中には、かっけにかかる人もいるそうだ。質素だが、たとえば茄子のへたも捨てずにおいしくなるように工夫して調理しているので、私たちの日常の食生活においても、応用したいものがある。

ところで、唐の時代、百丈懐海という高僧がいた。高齢なのに、率先して作務にいそしむため、弟子たちが、少し休んでいただこうと農耕具を隠してしまった。すると、禅師は食事をとろうとしなかった。そして、次のように言ったという。

「一日作さざれば一日食らわず」

一日作務をしなければ食事をしないという意味だが、日常の修行としての作務をそれだけ大切にしたいという百丈禅師の意思の表われである。

「働かざる者、食うべからず」という似ていることばもあるが、他者への訓戒の響きがある。「一日作さざれば一日食らわず」の表現する主体、そう決意する主体は、あくまでも自分である。自分の責任である。

百丈禅師は「勿体」を模索していたのだろう。繰り返すことになるが、同師の日常は修業が中心だった。なまけもので、食いしん坊の筆者は、禅師のことばを勝手ながら次のように解釈したい。

<おいしくいただくために働こう>

だが、これも全うするには、なかなか難しい。冒頭で触れたビュッフェのような食べ放題を思う存分楽しむためには、たくさんたくさん働く必要がある。労働の質も問われることになる。

このエッセーを書いた後のおやつを何にしようかと考えていたが、どうやらお茶だけに自制することになりそうである。

大本 泉

仙台市出身。仙台白百合女子大学教授。日本ペンクラブ女性作家委員。専門は日本の近現代文学。
著書に『名作の食卓』(角川書店)、共編著に『日本語表現 演習と発展』『同【改訂版】』(明治書院)、共著に『永井荷風 仮面と実像』(ぎょうせい)等がある。