忘れ得ぬ言の葉

通った小学校が東京郊外のキリスト教系の学校だったから、教科目の中に「宗教」という時間があった。一般の公立校で「道徳」を教える時間がそれにあたる。

小学一年生には、馬屋の聖家族が描かれた灰色の表紙の、厚さ半寸ほどの子ども向け聖書が与えられ、旧約の時代からのお話を順繰りに読むのが、その授業の内容だった。

級友のお母さんに手芸に秀でた人がいて、その子の聖書には、表紙と同じような灰色の布カバーがかけられ、そこに、表紙に描かれたのと同じ聖家族像が、とりどりの糸でステッチ刺繍されていた。それを、うらやましく眺めたものだ。

その挿絵つきの本を繰りながら、週に一回、みなで読み進み、そのうちモーセの出エジプト記と十戒の話にいたった。そのとき、初めて十戒の子ども向け訳文に触れ、ある不思議の感に打たれた。

十戒の内容は、旧教と新教、宗派により微妙な違いがあるようだが、前半の唯一神の主張や偶像崇拝の禁止、安息日の遵守を言うあたりは、神と人間との契約事項とされ、後半の「殺すな」「盗むな」「嘘をつくな(偽証するな)」などの項目は、人間と人間の関係、道徳律の根幹を定めたものとされる。

それにしても、後半にある姦淫の禁止は、あの頃、子ども向けにどう書かれていたのか。その聖書はとうに手元から失われ、確かめるすべ術もないが、なにがしかのことが、子どもにもわかる訳文で書かれていたのだろう。

そんな朧な記憶の中で、子ども心に不思議に感じたことの記憶、それは、後半の「殺人」「窃盗」「虚言」などの人間の不道徳な行いを諫める戒律を読んだあとで、「うらやんではいけない」と訳された最後の戒律を読んだときに感じた、突然の違和感である。

現代日本語の聖書では「隣人の家をむさぼってはいけない」などと訳されるこの戒律の原文は、実はかなり長たらしくて、「隣人の家(農地)、妻、男女の下僕、牛や驢馬を、ことごとくむやみに欲してはならない」といった、砂漠の遊牧民的財産観が反映された文意を持つ。

だが、誰が訳したのか知らないが、この聖書の編纂者は、これだけの長文をひと言、「うらやんではいけない」と訳してみせた。様々な悪行の諫めから、心の持ちようの諫めへ、という急な転換に、小一の私は戸惑った。

そんな、心の自然な有りようまで言われても困る、心の中のことじゃないか、誰にも見られない、わからないことじゃないか。

だが、「うらやむ」という人間の心の動きが、殺しや盗みや嘘つきにつながるのかもしれない、この十番目の戒律こそが十戒後半の要だ。知らずとそう思った。

その後の人生で、「羨望」を極力回避した結果はどうだったか。今にして思えば、余計な煩いを省略できたかもしれないが、人生に多少なりとも必要な競争心や、他人への関心まで封印してしまったのではなかったか、省みてたまさか思う。

阿部 由美子(あべ ゆみこ)

東海大学湘南校舎国際教育センター非常勤講師(日本語教育)