忘れ得ぬ言の葉

1985年の2月末に日本を出て、次に日本に住むために戻ってきたのが2004年の6月初旬。その間、時に帰国したが、三、四年日本に戻らないこともざらだった。

世紀が変わって、ふたたび東京で暮らし始めた。二十年ぶりに住む日本は、空気はまるで空気中の水滴まで見えるよう、都会なのに緑は青々として、すべてがみずみずしい。

よく使う郊外電車も、きらきらステンレスの車輌にかわり、座席にはいつの間にか、お尻一人分ずつ、縫い目が入っている。一列七人掛けを奨励するための仕掛けか。

二十世紀初頭にロンドンで地下鉄に乗った漱石は、見知らぬ者同士が相席して同一方向に連れてゆかれる乗合電車内の隔絶に、この孤独こそ近代と、どこかで書いていたような気がするが、なるほど、これが今の日本の孤独スペースのサイズか。

ところで、2004年に奇異に感じたのが、電車内で化粧する女たち。化けるの字のごとく、化粧の過程は、人目に晒すには不向きのようで、しかも脂粉の匂いは化粧室に漂ってこそ、そこはかとない趣もあるが、電車内では悪臭以外の何ものでもないと知る。

そんなことを思いながら三年日本に住み、また虫が疼いて、2007年の6月に日本を出た。2010年7月までベトナム北部、ハノイで過ごして、今度はわずか三年で日本に戻った。

おもしろいことに、電車に乗ると、前回気になった化粧する女は減っていた。そのかわり、「おや、新手の」と思ったのが、座席にどすんと腰を落とす人々。三年前には、この手の人には気づかなかった。すぐ隣に人が腰掛けていても、自宅の居間のソファに座るがごとく、重力に負けたように尻を落とす。性別や年齢に関わらず、そんな人が多くなった。人をむっとさせるし、体に響く。

折りよく、こんな座り方を指す言葉を見つけた。「衝き居(う)」。この言葉、この年で初めて目にして「ははん」と思い、物忘れのひどくなった頭にも、すっと入ってきた。教えてくれたのは、永江朗著『広辞苑の中の掘り出し日本語』115ページ。

同じく電車内の「どすん」にむっとしていた著者が、『広辞苑』にこの言葉を見つけ、「そうか、あれは「衝き居(う)」というのか」とはたと膝を叩いた光景が目に浮かぶ文章。

ちなみに、「居(ゐ)」が「う」となるのは、上一段活用「居(ゐ)る」のさらに古形、上二段活用終止形のときで、意味は座る、いるで変わらない。

車輌内での「化粧」「音漏れ」「大股開き」「飲食」に「プラットホームでのながら歩き」等々、乗合電車のアナウンスは、ますます強まる都会人の「どこでも自宅」癖の矯正に大わらわだが、「衝き居(う)」の言葉もそのうち加わるかもしれない。あの「整列乗車」も、東京五輪のとき、乗降客の押し合いへし合いは、来日する外国人の手前、はしたないといって、定着させたというし。

他人同士の乗合は、現代人の孤独と本性を次々と映し出して、興味は尽きない。

出典:『広辞苑の中の掘り出し日本語』永江朗、バジリコ株式会社、2011年

阿部 由美子(あべ ゆみこ)

東海大学湘南校舎国際教育センター非常勤講師(日本語教育)