その日本語、相手を不快にします

数年前,広島市内の高名なホテルのフロントで拾った話です。私の前でチェックインをする客と若いフロント係との会話です。

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係「お名前様頂戴できますか」
客「えっ,名前はあげませんよ」
係「あっ,ここへ名前を書いてください」
客「こちらへお名前をお書きくださいませんか,でしょう」
係「すみません」
客「すみません,ではなく,申し訳ございません,ですね」
係「申し訳ございません」

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やりとりがあまりにもおもしろいので,思わず聞き耳を立てました。

前の客が立ち去ったあと,後ろに客のいないことを確かめてから,その係に話しかけました。

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私「ずいぶん指導されましたね」
係「はあ,マニュアルどおりにやっているんですが」
私「そのマニュアルが間違っていますね。客に違和感を感じさせるような言い方はいけませんね」
係「では,どのように申せばよろしいでしょうか」
私「宿泊カードを差し出しながら言うわけですから,〈恐れ入りますが,こちらへ,お名前とご住所をお願いいたします〉と言えばいいでしょうね」
係「ありがとうございます」

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「お名前様頂戴できますか」も「お名前頂戴できますか」もいまだにはびこっています。フロント係は「マニュアルどおり」と言いましたが,最近見せてもらったマニュアルには,さすがに「様」は付いていません。「様」を付けさえすれば敬意が高まると勘違いをした誰かが妙なお手本を示したものでしょう。

確かにここでの「名前」は,相手のものを示していますが,この言葉そのものに人格があるわけではありません。人格のないものに「様」は付けないのです。江戸時代,徳川綱吉の治世に,下々がひそかに「お犬様」と呼んだのは,あえてそう表現することで,お上への痛烈な皮肉を込めたのです。

「頂戴できますか」がおかしいのは申すまでもありません。マニュアルの筆者もご勉強ください。

川本 信幹

著書に「日本語 鵜の目鷹の目烏の目」、「みがこう,あなたの日本語力」(以上、東京書籍)、「生きるための日本語力」(明治書院)など。2011年11月逝去

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