その日本語、相手を不快にします

過日、ある県のある警察署員が窃盗を働き、高校生に取り押さえられた。その高校生の一人が報道陣のマイクに向かって「世も末です」と述べたのはきわめて印象的であった。

例によって警察署長が記者会見で、報道陣に向かって「申し訳ございませんでした」と頭を下げたが、それはいかにも形式的な挙措であった。

高校生の言葉ではないが、「世も末」の時代となって、世の中の各方面で次々不祥事が発生している。 政治家・官公庁の管理職・大学の学長・企業の社長・警察署長などなど、部下が不祥事件を起こしたり、内部の問題が露見したりすると、ただただ「申し訳ございません」と頭を下げるばかりである。 記者会見でこの挨拶を何度も何度度も繰り返す向きもあるが、繰り返せば繰り返すほど空疎な言葉になる場合が少なくない。聞いていると不愉快になることさえある。

この「申し訳ございません」という謝罪の挨拶は、言葉だけで相手に謝罪の気持ちが通じるわけではない。声の出し方・発音の明晰さ、イントネーション(抑揚)、物腰(態度)・表情・目線などが総合されて真の謝意が表現されるのである。

口では「申し訳ございません」と言っても内心で自分は悪くないと思っているとどこかにそれが表れるのである。

新聞では、記者会見での謝罪の口上を書く場合が多いが、テレビでは「申し訳ございません」と頭を下げるところしか放映しない。だから、以下の指摘が当てはまらない場合も あろうが、あえて言っておきたい。

謝罪をする人が、本当に申し訳ないと思っているのなら、自分にどのような責任があるのかをはっきり述べなければならない。責任を取るなら具体的にどのように責任を取るかを明言するべきである。そうすれば、「申し訳ございません」が俄然真実味を帯びてくるのである。

アメリカで今年最も大きな話題になった会社の最高責任者の記者会見を見たが、謝罪の言葉もないし、自分がどういう責任を取るかという決意も全く示されなかった。それでいて、元役員たちは超高額の退職金を受け取って泥船から脱出しているのである。

日本ではアメリカ流は通用しない。上手な謝り方を常々研究しておかなければ末世を生き延びることはできないであろう。

川本 信幹

著書に「日本語 鵜の目鷹の目烏の目」、「みがこう,あなたの日本語力」(以上、東京書籍)、「生きるための日本語力」(明治書院)など。2011年11月逝去

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