「しば犬」は「しばいぬ」か「しばけん」かなど、「~犬」の語形(発音)の問題です。
これについては、NHKが『文研月報』や『放送研究と調査』という雑誌で過去に何度も取り上げています。以下に関連のあるところを引用します。
(1) 1981年:「○○犬」の「ケン・イヌ」は関係団体(地元の保存会など)の呼称と一般慣用を考慮して決めている。日本犬保存会によると、原則として和犬はイヌ、洋犬はケンと呼んでいるが、例外もある(紀州犬など)。
このように記したうえで、「○○イヌ」と呼ぶものに「秋田犬」「土佐犬」「柴犬」があり、「○○ケン」と呼ぶものに「紀州犬」「カラフト犬」「日本犬」があるとしています。日本犬(にほんけん)保存会という専門家の集まりによる呼び方を尊重していることがうかがえます。
1984年には、有識者、大学生、高校生、アナウンサーを対象としたアンケートを行い、それぞれの「~犬」がどう読まれるのかを調査し、以下のように解説しています。
(2) 1984年:アナウンサーを除いて、「アキタケン」が圧倒的である。(中略)現在の一般の慣用としてはアンケートの結果に見るように「アキタケン」が優勢である。同じように、土佐犬・柴犬も「~ケン」と言う人が増えているだろうことは想像にかたくない。
NHKは1990年にも似た調査を行い、「秋田犬は天然記念物である」というときの「秋田犬」は回答者の95%が「あきたけん」と読み、4%が「あきたいぬ」と読むという結果を得ています。
(3) 1990年:NHKの慣用が一般社会の慣用と合っていないことはだれもが経験上よく知っている。NHKの慣用がいったいどの程度の支持を得ているものなのか、それを調べようとした。結果は率直に言って予想以上であった。ほとんどの人が、アクセントは別にして、「秋田犬」と「秋田県」を発音上は区別していないということである。
アクセントのくだりに関しては、翌1991年の月報で「「アキタケン」という読みは「秋田県」と紛らわしいという意見もあるが、アクセントが“秋田犬”は平板型、“秋田県”は中高型と区別があるので混乱はないと思われる」と説明されます。
それでは現在のNHKではどのように扱っているでしょうか。『NHK日本語発音アクセント新辞典』(2016)と『NHKことばのハンドブック 第2版 第20刷』(2022)から、犬種が「~犬」で示される語を抜き出すと次のようになります。ここではアクセント辞典にその語がない場合にハンドブックの記述を示し、語形はひらがな表記に統一しています。
以上をもとに、ここでは和犬・洋犬という犬種ではなく「単語がもともとどの言語に属していたかという観点からの区別」(『新選国語辞典 第10版』)つまり「語種」によって上記の犬を眺めることにします。まず普通名詞の「~犬」で確かめると、「飼い犬」「こま犬」「負け犬」「山犬」など、前に和語が来る場合はイヌとなり、「愛犬」「介助犬」「警察犬」「盲導犬」など、前に漢語が来る場合はケンとなることがわかります。「異なる純粋種を交配して生まれた犬」(『大辞林 第4版』)を意味する「ミックス犬」など前に外来語が来る場合もケンを使います。
この原則を犬種の場合に当てはめると、「秋田犬」「しば犬」など、和語が前に来る場合はイヌ、「紀州犬」「日本犬」など漢語(と言えそうなもの)が前に来る場合はケンとなることがわかります。地名は語源が明らかではないことが少なくなく、たとえば「甲斐」は漢語のように感じられるかもしれませんが、「山のカヒ(峡・間)の義」(『日本国語大辞典 第2版』)のような語源説を知ると、和語なのかと思えてきます。ここで大事なことは、ことばの問題として実際に和語か漢語かということとは別に、現代人に和語と漢語のどちらで意識されるかという言語意識の観点です。「甲斐犬」は漢語として意識されると捉えれば、「紀州犬」や「日本犬」と同じ扱いとなります。「土佐犬」の場合は「土佐」が漢語なのか和語なのか(一般人の感覚では)はっきりしないので、そのことがイヌでもケンでもよさそうだと感じさせ、最終的には和犬ということでイヌを優先したものと考えます。なお「紀州犬」はNHKの報告では例外扱いでしたが、国語辞典の中には「きしゅういぬ」で項目を立てるものもあります。このようなことも考慮すると、「~犬」について、例外のない規則を設けたければ「和犬はすべてイヌとする」とし、「秋田犬」「甲斐犬」「しば犬」「土佐犬」「日本犬」および「紀州犬」「四国犬」「北海道犬」を同等に扱うという方針が必要になります注。一方、語種を考慮するならば、「秋田犬」「しば犬」はイヌ、残りは漢語扱いしてケン、というように決めることもできます。
以上は専門的な立場における「~犬」の判断基準でしたが、一般の人の場合、いずれもケンで発音する人が多いだろうと思われます。これはイヌとケンの造語力の差に原因があります。比較としてネコの場合を見ると、「飼い猫」「地域猫」「ペルシャ猫」のように、前に来る語の語種を問うことなく和語のネコが使われます。漢語(音読み)のビョウに同様の造語力がないため、多くの場合、選択肢は一つに限られます(「愛猫」などまれにビョウが使われることも)。ところがイヌ・ケンの場合は和語イヌと漢語ケンの両方に造語力があるので、その使い分けが問題となります。しかし「警察犬」「ミックス犬」など、漢語・外来語と結びつく接辞的な使い方としてはケンのほうに造語力の強さが感じられます。新しい普通名詞の「~犬」が作られる際は、ケンが使われやすいとも言えます。犬種では「エスキモー犬」の「エスキモー」のように外来語と結びつく例があります。このようなことが下地(したじ)となって、和犬の犬種においてもケンを使うべきであるという意識が生まれ、前に来る語が和語・漢語のいずれであるかを問わずにケンの発音が一般化したものと推測します。どういう犬か不定の場合には「なにけん(何犬)」となり、「なにいぬ」が出てこない、ということもあります。
では一般の人に圧倒的にケンが多いという理由により、多数決でケンに統一すべきでしょうか。筆者は子どものころに「しば犬」を飼い、「しばけん」と発音していましたから、個人的には、そのような統一は都合がいいかもしれません。しかし、ここでの結論は異なり、次のような議論が必要だと考えます。
それは、NHKがイヌを使ってきた専門家(保存会など)と相談し、①一般の人もイヌを使うように教育し、その普及に努める、②一般の人と専門家の間で発音がずれていることに関して、NHKとしては一般の人に合わせたいということを専門家に理解してもらう、③専門家がみずからの発音を一般の人に合わせるよう変更する、といった候補のうち、いずれが理想的または現実的であるのかを話し合い、その内容と結果を広く世間に示す、というものです。語形についての調査を長年にわたって続け、標準語の見本であり続けてきたNHKを除いて、そのような重責を果たすことのできる主体は存在しないと考えます。
注 「甲斐犬」は「飼い犬」と同音であるため、イヌとすることに抵抗が伴います。ただし、まれに「かいいぬ」と発音する人も見かけます。
中川秀太
文学博士、日本語検定 問題作成委員
専攻は日本語学。文学博士(早稲田大学)。2017年から日本語検定の問題作成委員を務める。