1954年に公になった「ローマ字のつづり方」(内閣告示)には、
と とが示されています。第1表が原則的な書き方であり(いわゆる訓令式に基づくもの)、第2表は特別な場合の書き方です(ヘボン式と日本式に基づくもの)。表が公になってから約70年がたつ現在、この表は、実用的な表でしょうか。問題が生じている部分はないでしょうか。以下で検証します。なお、紙幅の都合上、特に問題のない部分は飛ばします。カ行にはkを使い、cは表にありませんが、現在たとえば「こころ」という名前の子どもがKokoroではなく、Cocoro(Cocolo)と書くというような表記のユレが生じています。Coca-Cola(コカコーラ)やcocoa(ココア)にcoが使われます。こういった外国語で使われるcを見て、日本語を書くときにも使ってみたいという気持ちになるようです。kよりもcの形にかわいらしさを感じている可能性もあります。現代人がかつてキリシタンの用いたcを意識しているとも思えません。co以外の場合も含めて要注意の書き方です。
サ行の場合、「し」およびよう音の「しゃ、しゅ、しょ」に2通りの書き方があります。深刻なのは、ヘボン式が標準であると捉えている人がsyaやsyuは誤りであると主張する事態が生じていることです。
次のタ行にも、「ち」「つ」「ちゃ、ちゅ、ちょ」に二つの書き方があります。たとえばMotida(持田)、Tuzi(辻)と書いたら、教師からモティダ、チュジと読まれてしまうと指摘され、ヘボン式に訂正させられたという話を学生から聞くことがあります。教科にもよると思われますが、教師の中にはローマ字の書き方を理解していない人がいるということです。なお、パソコンでローマ字からカナに変換する際、「ちゃ」などは、tya、chaに加え、cyaでも「ちゃ」に変換されます。thaは「てゃ」となります。cyaは「ローマ字のつづり方」にないつづりです。
次のナ行は、特に問題がありません。よう音は、nya、nyu、nyoと書きます。第1表の書き方であれば、「しゃ」も「ちゃ」も「にゃ」もsya、tya、nyaと書き、yが共通しますが、ヘボン式を使えば、「しゃ」「ちゃ」にはsha、chaでhを使い、「にゃ」にはyを使うという不均衡が生じます。統一感ということから言えば、第1表の書き方がすぐれることは一目瞭然ですが、そのことが意識されることはあまりないようです。それほど、ヘボン式の書き方が広く行き渡っているということでもあるのでしょう。
ハ行には、hを使いますが、「ふ」は例外的にヘボン式のfuが存在するため、「布団」をhutonと書くか、futonと書くかでユレが生じます。Fujisanを見慣れた人からすると、Huzisanでは気分が出ないという声も聞かれます。
ラ行には、表にないlの文字が適切であるという俗説があります。日本語のラ行の音は英語のrとは違い、lのほうが近いからlであるといったことを根拠とするようですが、ラ行音は、英語のrともlとも異なります。表記の決まり事として、ラ行はrで書くということなので、たとえば「令和」という元号はReiwaと書けばよく、Leiwaとは書きません(古くは、rに落ち着くまでにlが使われたこともあります(杉本(2002))。
ダ行は、zi(ぢ)など、ザ行と同じ発音のものは、既出ということで、カッコの中に示されています。第2表のjoまでは、ヘボン式つまり英語話者にとって習得しやすいローマ字のつづり方が示されていますが、その下のdiからは、日本式による書き方を示したものです。ヘボン式ではないため、ふだんの生活で必要とされることも特になく、di、du、dya、dyu、dyo(かな書きの「ぢ」「づ」「ぢゃ」「ぢゅ」「ぢょ」に相当)が出てくることはほとんどありません。その下にある、kwa、gwaも、明治の頃までは行われたクヮイシャ(会社)、グヮンコ(頑固)といった発音を表記に反映させるために必要とされましたが、それも戦後まもない1954年であるからこそ必要とされた措置であり、現在では、上記のように「会社」や「頑固」を発音する日本語話者が絶えたと言える状況にあるため、現代語の和語・漢語の範囲ではkwa、gwaは必要のない書き方です。外来語をローマ字で書くという場合には、別途、検討が要るかもしれません。
第2表の最後にあるwoは、日本式で助詞の「を」を書くためのつづりです。第1表の書き方であれば「を」はoと書きます。たとえば、国語審議会による「ローマ字文の分ち書きのしかた」(1952)には、Sonna koto o surunaという文例が載っています。中には、「を」はwoと発音する、ゆえにローマ字で書く場合はwoと書くという人も相当数いそうな気がします。しかし、標準的には、「を」はoと発音し、ローマ字ではoと書きます。日本式の発想では、発音はoであっても、かな書きするときに「を」と書いて助詞であることの目印とするのと同様に、ローマ字を使うときもwoと書くのが望ましいという考え方になります。
以上の個々のローマ字の書き方に加えて、「ローマ字のつづり方」には、「そえがき」という項目があり、六つの注記が載ります。ここでは、そのうちはつ音(撥音)と長音に関するものを見ておきます。はつ音には、nを使います。ヘボン式では、後ろにp、b、mの来るときにmを使うため、たとえば辺見さんがパスポートの申請をする際はHenmiでは受け付けられず、Hemmiが要求されます。ローマ字変換の際は、「ん」はnnと書かないと変換されないため、ローマ字で文章を書くとなった場合にもnnと記す現象があります。このことは、東京大学教養学部英語部会、教養教育開発機構で作成した「日本語のローマ字表記の推奨形式」(2009)で指摘されています。
長音の書き方が最も動揺しています。「そえがき」には「母音字の上に^をつけて表わす。なお、大文字の場合は母音字を並べてもよい」とありますが、手書きが主流であった当時と異なり、パソコンなどで文字を入力するようになった現在においては、キーボードで容易に打ち出せない^(アクサンシルコンフレックス)は、使いにくい記号に感じられます。小学館の『句読点、記号・符号活用辞典。』(2007)には、ローマ字で記す長音について、母音の上に¯(マクロン)を使う方式も行われるほか、次のような書き方も行われているとあります。
原則どおりの^も鉄道の駅の標識などに用いられる¯も、パソコンや携帯電話では書きにくいため、それ以外の書き方をする人が多いというのが実態です。そうすると、tokyoがトキョと読まれたり、kooni(小鬼)が「高2」に、hirou(拾う)が「披露」に誤解されたり、ohini(大いに)が「おひに?」ととまどわれたりすることになります。簡単に打ち出せて、誤解の余地のない表記を求めるならば、o-kami(オオカミ)、o-ini(大いに)というように、-を用いるというのが望ましい選択肢です。「拾う」はhirou、「披露」はhiro-というように書き分けが可能です。ただし、その場合は、現在、駅などにあるKita-Senjuといった、つなぎ目に使う-と重複することになるため、つなぎ目には別の記号を使うか、空白をあけるかといったことも合わせて考える必要があります。それが大きな障害であるとするなら、次善の策としては、母音を重ねる方式を原則とし、kooni(小鬼・高2)のような場合は、ko’oniとkooniの書き分けにより解決するという方法をとることも可能です。
パスポートのほかにも、道路標識などローマ字を目にする機会は少なくありません。そろそろ統一的なローマ字表記が検討されるべき時期に来ています。それがたとえヘボン式を優先することになろうともです。通常の日本語の表記では、「自由」「多様性」「多彩」といった旗印のもとに、表記のユレが容認されていますが、ローマ字の使用は、国際的な日本の信頼性にも関わってくる大きな問題です。その表記のユレが外国の人の目には、どう映るでしょうか。文字数の少ないローマ字を使うときでさえ、日本人には、正書法を定める力がないと思われてしまいます。それは口惜しいことです。
参考文献
杉本つとむ(2002)「〈ローマ字〉を歴史の眼でみる」『近代語研究』11
|
|
|
中川秀太
文学博士、日本語検定 問題作成委員
専攻は日本語学。文学博士(早稲田大学)。2017年から日本語検定の問題作成委員を務める。