相撲の世界には、「土俵」「大いちょう」「出し投げ」など、独自のことばがたくさんあります。一般には文語的と記されることもある「かいな」(うで)という語が、たとえば「かいなをかえす」など日常的に使われる世界でもあります。ここでは、相撲で使われる三つの動詞について、その特徴を見ます。対象は「(土俵を)割る」「のぞかせる」「あてがう」です。いずれも日常的に使う動詞ですが、相撲の世界での使い方には、一般とは異なる性格があります。
「割る」という動詞は、「皿」「すいか」「ガラス」など固体と結びついて、それを分ける意味を表します。「腹を割る」「党を割る」など、比喩的・抽象的に分ける動作についても使います。相撲の場合、土俵から外に出ることを表す表現として「土俵を割る」と言います。一つ用例を示します。
増位山が土俵際まで押してもう押せないというのでファーと双葉山に体をあずけたら双葉山が土俵を割ったという。
(北出清五郎、小坂秀二『大相撲もしもの名勝負101番』1985年、エンタプライズ)この「割る」は、国語辞典では自動詞と他動詞の判断が分かれています。
『三省堂国語辞典』の場合、第7版までは自動詞としていましたが、第8版で他動詞に変更されています。自他が問題になるものとしては、ほかに「株価が一万円を割る」「応募者が定員を割る」など数値について述べる用法があります。これらもすべて他動詞とする辞書もありますが、ここでは「土俵を割る」と数値に関する用法の違いを考えます。それは、数値用法の場合、「株価が一万円より下になる」「応募者の数が定員より下になる」ことを表している、つまり、表面上は「を」が使われ、他動詞であるように見えるものの、意味としては、主語(「~が」の名詞)自身の数が低いことを述べたものであり、自動詞と似たところがあるということです。それゆえ、辞書によっては、自動詞としているものもあります。
問題は、「土俵を割る」をそれらと同じにしてよいかどうかという点です。土俵の場合、それを割るのは力士です。土俵の上で戦う力士が相手に押し込まれるなどして、丸い土俵のはじのところをあたかもパカッと割るかのようにして外へ出ることを「土俵を割る」と言っています。「土俵を出る」と言えば客観的な表現ですが、これだと単に退場する意味で述べているようにも受け取れます。勝負の中でということを表すには「土俵を割る」という言い方に価値が認められます。
一方、「出る」という動詞は、通常、自動詞として分類されます。助詞の「を」をとるものの、文法の分野では、「通る」「走る」「渡る」など移動を表す動詞は、「を」をとるとしても自動詞として扱うのが一般的なためです(異論もあります)。それゆえ、「土俵を出る」と同じ事柄を表しているのであれば、「土俵を割る」の「割る」も自動詞とするのが妥当であるとの考え方に至ります。他動詞とする立場にも自動詞とする立場にも、一定の理があることがわかりました。
筆者としては、「土俵を割る」の「割る」は他動詞とすればよいと判断します。「タマゴを割る」などと同じように、元には戻らないという感覚が「土俵を割る」という表現を使うことの根っこにあると考えるからです。目に映る現象としては、負ける側の力士が土俵の外に移動するという動きがあるだけですが、その表現としては、単に移動を表す「出る」と、土俵のはじっこを崩すかのような動きを表す「割る」とでは、発想の違いが認められるということです。
この動詞は、一般的には「物の一部分を外から見えるようにする」という意味で「ポケットからハンカチをのぞかせる」のように使います(以上『新選国語辞典 第10版』から)。相撲では、「相手のわきを浅くさす」(同上)という意味で「右をのぞかせる」などと言います。「浅く差す」と言えばよいわけですが、「差す」は、「深く差す」場合や、ほどほどに差す場合に用いられ、「浅く」という条件がつく場合は「のぞかせる」を使うという傾向があります。使うのは、解説をするアナウンサーや親方であり、土俵の上にいる力士ではありません。
「のぞかせる」の一般的な用法と異なるのは、相撲の場合、対象そのものつまり「手」ないし「腕」を目的語として示すことがなく、「左をのぞかせる」「右をのぞかせる」というように使うのが一般的なことです。もっとも、「左のかいなをのぞかせる」のような言い方もあるので、絶対に左右のみを述べるということではありませんが、腕のことを言っているという情報が省略されやすいことは一つの特徴です。
語釈については、どの辞書も「相手のわきを浅く差す」のように「差す」を使って説明します。「相手のわきに手首がかかる程度に浅く差す」(『新明解国語辞典 第8版』)のように、「手首がかかる程度」という工夫を示す辞書もあります。問題は、「見えるようにする」という一般的な意味の場合とは、用いる動詞に差がありすぎることです。「差す」は、力士の動作を客観的に示しますが、「見えるようにする」というのは、相手に向けて意図的にそうすることを示します。それゆえ、仮に相撲になじみのない人が辞書を引いた場合、二つの意味につながりが見いだしにくいことでしょう。
そもそも「のぞかせる」がどういう場合に使われるのかを考えてみると、「ポケットからハンカチをのぞかせる」のも「窓からちらりと顔をのぞかせる」(『明鏡国語辞典 第3版』の用例)のも、自分以外の誰かに向けて、その動作を行っている(と見なしうる)場合に使うということがわかります。見えるようにしていると判断するのは相手や第三者です。相撲の場合も発想は同じだと考えると、それは「力士Aが力士Bのわきに右か左の手を浅く差して、力士Bの後ろから見れば、その手をあたかもちらりと見せているような格好になること」というふうに説明できます。ここまで辞書に長く書くことは不可能なため、「向かい側にいる人からその手が少し見える程度に相手のわきを浅く差す」くらいが限度でしょうか注。
「あてがう」は、ぴったりくっつけるという意味を表す他動詞です。「壁の穴に板をあてがう」(『新選国語辞典 第10版』)や「ハンカチを口にあてがう」(『明鏡国語辞典 第3版』)のように、「何を」の情報に加え、「どこに」の情報も必要です。
相撲の場合、ピタリと合わせるという意味は、一般的な使い方と変わるところがありません。違いは、目的語の有無にあります。大相撲中継や新聞・雑誌の記事の場合、「何を」あてがうのか、そのことに言及の及ぶことがほとんどありません。少し用例を示します。以下は、雑誌『相撲』の927号からのものです。
大栄翔が突き放そうとするのを琴ノ若が踏み込み良くあてがい、突き返して快勝
『ガチンコ:さらば若乃花』(2000年、講談社)という書籍からも同様の例を示します。
若乃花はただ単にあてがうのではなく、そうしながら相手のかいなを絞っている。
立ち合い、相手はパンパンと突っ張ってくる。それを下からあてがいながら彼は、「このまま突き出されてもいいかな」と、ふとそう思った。
これらの例の場合、「何を」「どこに」という情報はありません。言わずとも、「手」を「相手の上半身のどこか」にあてがうということは了解されていると見なされています。相撲関係者ではない人が使った例としては、俳優の松重豊さんが2024年5月3日にNHKの相撲番組に出演した際、「わきのしたにてをあてがい」と話していました。「どこに」「何を」を明示するなら、このように表現することとなります。
辞書に載せるとなれば、自他(自動詞か他動詞か)に悩むところでしょうが、ひとまずは、相撲における特殊用法として、目的語を表示せずに用いられることが多いといった注意書きを載せる程度でよいと考えます。
ここでは、相撲における動詞の特別な用法について検討しました。ほかの分野でも、自他の面で特殊な用法を持つ動詞は存在していることでしょう。また、相撲の場合は、手・かいな(うで)を使う動作が重要であることから、「のぞかせる」や「あてがう」といった動詞に特殊な用法が生じたと考えることができますが、ほかの分野にも、体の一部に関係する動作を表す動詞に、何かしらの特殊用法が発展しているということが考えられます。それぞれの分野に詳しい人が、個々の動詞について、一般的な使い方と業界独自の使い方を比較し、共通点と異なりを細かく記述してくれることを願います。
注 大相撲中継を聞いていると、「宝富士左をのぞいた」などと「のぞく」のまま「のぞかせる」と同じことを述べているのを聞くことがあります。これが急いで解説しようとして出た結果なのか、ある程度、定着している言い方なのか、調べが進んでいないため、結論が出せません。今後の課題です。
中川秀太
文学博士、日本語検定 問題作成委員
専攻は日本語学。文学博士(早稲田大学)。2017年から日本語検定の問題作成委員を務める。