「わたし」という一人称は、「私」と書くことが多いのに対して、二人称の「あなた」は、かな書きが一般的であり、「貴方」のような「常用漢字表」の範囲で書けない表記は、手紙文(メール)などで使う人がいるものの、教科書やマスメディアの標準表記としては採用されていません。代名詞の表記は、何をもとに決まっているのかについて考えます。
「当用漢字表」(1946)の「使用上の注意事項ロ」に「代名詞・副詞・接続詞・感動詞・助動詞・助詞は、なるべく仮名書きにする」という内容が示されています。これが「当用漢字表」および「当用漢字音訓表」(1948)の行われた時代における代名詞の表記の基準です。
この基準は、指示代名詞に関しては有効に働きました。小林(2021、p.51)にあがる指示代名詞を列挙すると、以下のようになります。
これ、こいつ、ここ、こっち、こちら
それ、そいつ、そこ、そっち、そちら
あれ、あいつ、あそこ、あっち、あちら
どれ、どいつ、どこ、どっち、どちら
この中には、「あいつ」の「彼奴」、「どちら」の「何方」など漢字で書こうと思えば書けるものもあります。しかし、すでにかな書きが定着していて、いまさら漢字表記を標準にしたいという声は聞こえてきません。「こいつ~どいつ」は、人を表しますが、公的な語としての性質を持たないため、漢字で書きたい、書くべきだという主張が出にくいタイプの語群と見なせます。
これに対して、人称代名詞のほうは、かな書きにも漢字表記にも統一されていないというのが現状です。小林(2021、p.50)から人称代名詞を抜き出し、以下に示します。ただし、「こいつ」「そいつ」「あいつ」「どいつ」を省略し、三人称に「かれ(彼)」「かのじょ(彼女)」を付け加えておきます。以下の議論では、人称代名詞の「じぶん(自分)」「われ(我)」と指示代名詞の「なに(何)」も対象とします。
わたくし、わたし、ぼく、おれ
あなた、あんた、きみ、おまえ、きさま
かれ、かのじょ
どなた、だれ
このうち、たとえば「どなた」は、かな書きが一般的ですが、「ぼく」(漢語)は「僕」と書くことが広く行われています。特に一人称について、漢字表記が行われやすいようです。どうしてこうなったのかを知るためには、「当用漢字表」以降の漢字表における代名詞の扱いおよび公用文などにおける表記の変遷を確かめる必要があります。
上記の人称代名詞に関わる漢字のうち、「当用漢字表」時代に表内字・表内音訓として採用されていたのは、「君(クン、きみ)」「私(シ、わたくし)」「前(ゼン、まえ)」「貴(キ)」「様(ヨウ、さま)」「彼(ヒ、かれ、かの)」「女(ジョ、ニョ、おんな)」です。ここでは、音(おん)をカタカナで、訓をひらがなで示しています。
「当用漢字表」には、具体的にどういう場合にこれらの漢字・音訓を使うのかが示されていません。それゆえ、「君」は、二人称として使うものか、「わが君」「いとしき君」のように、「母君」「兄君」など、熟語の要素として使うことを想定しているのかはっきりしません。二人称として使いたいという立場からすれば、つけいるスキが生じたとも言えます。
「私」についても、「おおやけとわたくし(公と私)」といった言い方を想定して漢字・音訓を採用した可能性がありますが、「わたくし」と「わたし」のうち、どちらも漢字で書くと読み分けができないから、「わたくし」のみ「私」と書くということにした、ということを意図しているとも読めます。なお、「ガ、われ」の認められた「我」も「我を忘れる」のような場合は、名詞としての使い方ですが、一人称の「われ」、複数の「われわれ」に使う場合も想定しているのかどうか、ユーザーの立場からすると、はっきりしません。それゆえ、かな書きにする立場と「我」「我々」と書く立場とで表記がゆれることとなりました。
以上をもとにすると、代名詞の表記は、「当用漢字表」の時代から不安定になるリスクをかかえていたと言えます。以上のほかに「お前」「貴様」「彼」「彼女」も表内の書き方として使うことが可能です。
これに対して、「公用文作成の要領」(1952)では、「彼」などは「当用漢字表」の範囲で書けるが、なるべくかな書きするものというふうに、代名詞は、かな書きが原則という方針であることを示す文言が記されました。
なお、指示代名詞の「何」は、「カ、なに」が認められました。「なん」は、1973年の「当用漢字音訓表(改訂)」のときに加わった訓です。「なに」は、名詞の用法がなく、代名詞(副詞、感動詞にも)としての使用がもっぱらです。
「当用漢字表補正資料」(1954年3月15日)は、告示ではなく国語審議会の報告として発表されました。この報告の内容は、一般には知られることがありませんでしたが、新聞や放送では、その後の「常用漢字表」(1981)に先立って採用されることとなりました。代名詞の場合、「僕」が具体例です。おそらく、①「わたくし」より文体的な改まり度は下がるものの、使用頻度の高い一人称の「ぼく」を漢字で書きたい、②「きみ」は、「当用漢字表」の範囲で「君」と書ける、③「ぼくと君」「君とぼく」ではなく「僕と君」「君と僕」と書くほうが統一感が出る、といったことを主張する人がいたということでしょう。
この資料のあとに出たNHKの『NHK用字用語辞典』(1965)では、代名詞はかな書きを原則とするものの、「僕」「君」「彼」「彼女」「お前」「自分」は「ただし、次のようなものは漢字で書いてもよい」ものとして扱われています。
1981年に告示された「常用漢字表」には、前述の「僕」が正式に採用されました。それ以外は、「当用漢字表」の時代のままです。
1981年の「常用漢字表」の時代、文書作成はまだまだ手書きが一般的でしたが、2010年に「常用漢字表(改定)」が出たころには、パソコンや携帯電話で文字を「打つ」「入力する」生活が一般化しました。パソコンや携帯電話の変換機能により表示される漢字は、無制限に使ってもかまわないという考え方が広がりやすい時代であると見ることもできます。
このような背景をもとにして、代名詞について生じたことは、「私」に「わたし」の訓が認められたことと「俺」「誰」の字が採用され、「おれ」「だれ」の訓が認められたことです。それまでは、「私」と書いてあれば、「わたくし」と読むというルールがあったのに対し、「私」が「わたくし」とも「わたし」とも読みうるようになりました。読み手が好きに読めばよいということは、一見、自由度が広がったかのようにも見えますが、実際には、ことばが文字に振り回されている異様な状態だと捉えることができます。個人の方策としては、いずれもかな書きを使うようにするか、読みがなで語形を明示するかせざるをえないでしょう。
「おれ」は、文体的に公の場には適さないことばです。それゆえ、書きことばとして「俺」と書く必要もないというのが従来の考え方でした。しかし、「常用漢字表(改定)」が出る前後の時期には、「「常用漢字表」には「俺」がない。それは「おれ」ということばを使ってはいけないということか」というように、「奇妙な」考え方をした人を散見しました。これは、ことばではなく文字に従属したモノの見方の典型例です。TPOをわきまえさえすれば、「おれ」ということばを使うことに問題はありません。話しことばで使うことが多いことを考えれば、漢字を必要としないことばであると見ることもできます。しかしながら、「おれは○○なんです」のように、ですます体に「おれ」が入りこんできたことが背景となり(寿岳(1988))、公的な場でも「おれ」が使えるはずであるという意識を生じさせ、漢字で「俺」と書きたいという人が増えた可能性があります。
漢字表の作成主体やマスメディアの中には、代名詞は具体的な事柄を表さない品詞であるため、漢字を使ったところで語の理解に役立たないといった、かな書きにする理由を正確に理解している人もいたはずですが、結局のところは、反対意見が盛んになることもなく、すんなりと「俺」が採用されました。「僕」と同じようなものだから、まあ「俺」でいいでしょうというような判断が行われたのでしょう。
「おまえ」「きさま」は、「お前」「貴様」と書くことが可能ですが、語の文体的な価値が下落しているため、「貴様」と書くのは、漢字の意味と合わず不自然だと考える向きがあります。それゆえ「きさま」「キサマ」が出てきます。「お前」は、神仏や貴人の「お(ん)まえ」という意味が現代語の場合に感じられないため、「御」に加え「前」も語を理解するための要素としては不要、という考え方になり、「おまえ」「オマエ」といった表記が行われます。東京書籍の『教科書 表記の基準2021年版』と共同通信の『記者ハンドブック 第14版』では、「おまえ」が標準表記とされています。「きさま」は、立項されていません。他方、NHKの『NHK漢字表記辞典』には「おまえ」「きさま」がともに載り、表記は「お前」「貴様」となっています。
東京書籍と共同通信の辞書に「きさま」を立項する可能性が出た場合を想定してみると、その際は、①「おまえ」と「きさま」とでは、「きさま」のほうが現代語として文体的価値が低い(かつて、その価値が高かった時代には「御前」「貴様」で自然だった)、②「おまえさま」「おまえさん」といった丁寧な言い方がある。「きさま」は、丁寧な言い方に整えられない、③相対的に丁寧さが高い「おまえ」をかな書きとしながら「きさま」に漢字を使うのでは、語の丁寧さと表記の扱いが矛盾する。丁寧な「おまえ」のほうに漢字を使うほうがスジが通る、というプロセスを経て、最終的に、かな書きの「きさま」が妥当だと判断されると予測します。
このようなことを考えると、現代語において、すでに丁寧さが下がっている「あなた」には、あえて漢字表記できるようにする必要性がありません。「あなた」から転じた、丁寧さの低い「あんた」ならなおさらのことです。仮に漢字表に入れるとなれば、「貴方」のどの部分が「あ」「な」「た」に当たるのかを判断しなければいけなくなります。それは不可能であるため、「常用漢字表」の付表に熟字訓の例として追加することとなります。
近代のころから昭和のある時期まで、「あなた」ということばは、丁寧に相手を呼ぶときに使う代名詞として用いられてきましたが、おおよそ戦後になると、対等か立場が下の相手でないと使いにくくなってきています。外国人学習者からは、日本語を勉強するときに「あなた」を使うよう指導されものの、ネイティブの日本語話者が「あなた」をあまり使っていないことに気がついてとまどうと聞くことがあります。その「あなた」という語が標準表記の観点から言えば、もっとも人称代名詞の中で表記が安定しているものの一つであるというのは、皮肉な結果にも感じられます。
代名詞は、具体的な事柄を表すことのない品詞であるという理由で「当用漢字表」の時代には、副詞や接続詞と並んで、かな書きが推奨されました。しかし、助詞の「が」や「は」がつくことなど、文法上は、一般の名詞と共通します。漢字かな交じり文を行うにあたり、文頭が漢字、助詞がひらがな、という組み合わせから言えば、代名詞にも漢字を使うという考えは合理的であると見ることもできます。代名詞の表記がさまざまな分野をまたいで安定することに至らない理由はここにあります。
参考文献
小林伊智郎(2021)「代名詞」『日本語文法百科』朝倉書店
寿岳章子(1988)「戦後における東京語の変遷」『国語と国文学』65-11
武部良明(1979)『日本語の表記』角川書店
中川秀太
文学博士、日本ウェルネススポーツ大学スポーツプロモーション学部 准教授、日本語検定 問題作成委員
専攻は日本語学。文学博士(早稲田大学)。2017年から日本語検定の問題作成委員を務める。