「長女が誕生する」の「誕生」や「エアコンを設置する」の「設置」のように、サ変動詞「する」をつけて動詞として使うことのできる名詞は、サ変動詞語幹と呼ばれます。漢語あるいは「キックする」の「キック」など外来語の名詞の中には、サ変動詞語幹として用いられるものがたくさんあります。その際、「長女が誕生する」のように格助詞の「を」がつかないものは自動詞、「エアコンを設置する」のように「を」がつくものは他動詞というふうに区別します。さらに「事務所が開業する」「事務所を開業する」のように、自動詞と他動詞の両方の用法を持つ名詞も少なくありません。和語の動詞は、「あがる・あげる」「離れる・離す」のように、動詞の形そのものが自他によって異なる場合が多いため、自他の判別をするのが比較的に容易です。一方「サ変動詞語幹+スル」の場合は、形から自他を判別することができず、語の持つ意味を頼りにして、たとえば「エアコンが設置する」という動作は不自然であるから「設置」には自動詞用法はなく、他動詞用法だけであろうというような判断をしなくてはなりません。
時には、自他にユレが生じることもあります。たとえば「俗化する」は「温泉が俗化する」「俗化した温泉」といった形で使うので自動詞です。しかし「俗化された温泉」という言い方を見聞きすることもあります。この場合、「俗化」は他動詞の受け身として用いられています。「人が温泉を俗化する→温泉が人によって俗化される」という関係です。しかし、「俗化した温泉」という言い方がもともとあるので、「俗化される」は本来は要りません。「老朽(化)した校舎」「老化した脳」が「老朽(化)された校舎」「老化された脳」とは言わないのと同じです。これらも自動詞です。ただし「俗化される」が使いたくなる気持ちは理解できなくもありません。「俗化した温泉」では、その温泉そのものの責任で俗っぽくなったと理解されますが、「俗化された温泉」の場合、歓楽街など、遊びの要素が人為的に加えられたことによって俗化が進んだと見る表現になります。それゆえ一概に「俗化される」を否定するわけにもいきません。
ここからが本題です。「可決する」は「可であると決めること」を表す他動詞であり、「成立する」は「成り立つ」という意味を表す自動詞です。したがって「可決成立する」「可決・成立する」といった表現は不自然であり、「可決する」は「人が法案を可決する」すなわち「法案が可決される」、「成立する」は「法(律)が成立する」(×法(律)を成立する)というように別々に表現する必要があります。どうして、このような無理のある表現が新聞などで行われるのでしょうか。その答えを探します。
まず「可決する」「成立する」に関連する名詞「法案」「法律」の意味を確認します。『明鏡国語辞典 第3版』には、「法案」は「法律の案文。法律案」、「法律」は「憲法に基づき、国会の議決を経て制定される成文法」と記されています。具体的な流れとしては、内閣または国会議員が提出した法律案は、まず衆議院で審議され、可決となれば参議院に送られます。参議院でも審議されて法律案が可決ということになれば、法律が成立します(参議院から審議が始まることもあります)。
丁寧な書き方をする人は、「法案を可決する」ことと「法律が成立する」こととは分けて書きます。特に法律の専門家が書いたモノの中には、筆者の記憶のかぎりでは、「可決・成立する」が出てくることはありません。当然、分けて書くべき事柄であると理解されているからでしょう。ところが、マスメディアの人たちの中には、たとえば「(参議院が)金融再生法案を可決する」「金融再生法が成立する」という似通った形の表現を別々に書くことに煩わしさを感じる書き手もいるようです。それゆえ「金融再生法が可決・成立する」または「金融再生法案が可決・成立する」という圧縮した表現が生まれます。何となく理解できると言えば理解できる表現ですが、次の問題をかかえた圧縮表現であることが違和感を覚える原因となります。
このうち、①と②の問題を解決するには、「金融再生法が可決・成立する」の場合は「法」の意味を「法案」の意味に広げて理解するか、表面には現れていない「法案」が文脈的に含意されていると理解するかし、「金融再生法案が可決・成立する」の場合は「法案」の意味を「法律」の意味にまで広げて理解するか、「法律」が文脈的に含意されていると理解するかしなければならなくなります。重要な意味の違いがあるからこそ、「法案」と「法律」ということばが別々に存在しているのにもかかわらず、そのような雑な取り扱いをしてよいと言えるでしょうか。
残る③について、これは「○○法が可決され、成立した」と表現されることもあり、「可決・成立する」の場合は、「され」が省略されていると捉えればよいという考え方もできそうです。それなら、「可決」は、あくまで他動詞として使われていることになります。横井(2017)は「漢語サ変動詞は、活用語尾なしで使われる機会が多いため(名詞、動名詞、体言止め、体言中止法など)、「させる」「される」などが定型的に付け忘れられる」と述べ、その代表的な例が「○○法案が可決〔され〕、成立した」における「され」の省略による「が可決する」であると指摘しています。書き手としては「され」を省略した言い方であり、「可決」が他動詞であるという理解は揺るがない、と主張するかもしれません。しかし、そもそもたとえば「肥料を生産・販売する」の場合は「生産」も「販売」も他動詞であり、両方に共通する「する」を省略しても理解に差し支えがないと見込めるのに対し、「可決される」と「成立する」とでは、後ろにつく動詞の形が「される」と「する」で異なります。その形の違いが表す意味の差を無視しても、理解に支障はないと断言する文法的、意味的な根拠はありません。また、たとえ書き手が「される」の省略として用いた表現であったとしても、受け手の側で、そのように解釈するとは限りません。「成立」と同じく「可決」も自動詞として扱われていると見なす人がいる可能性があります。さらにそのことが「成立」がない文脈において「葉山町はすでに補正予算案が可決しており」(朝日新聞(横浜)、2021年12月16日)というような自動詞としての「可決する」の使用が出てくることにつながります。
法案をよしと認めないことは「否決する」と表現し、これも他動詞であり、「可決する」の対義語です。こちらには自他の問題は起こっていません。「成立する」と並べて使うというような荒業が必要とされないからです。したがって、仮に「可決する」に自動詞用法が定着することになると、「可決する」は自他兼用、対義語の「否決する」は他動詞のままというアンバランスな扱いになりますが、そのようにする必要性はどこにあるでしょう。どちらも他動詞用法を維持するほうが学習上の負担が軽くて済みます。このような問題をさけるには、和語を使うのが頭のトレーニングになります。他動詞の「認める」は自然であるが、自動詞の「認まる」は形として不自然であると思えれば、「認める」と似た意味を持つ「可決する」についての自他意識も高まります。日本人は自他を気にして生活していない(から慣用からずれた使い方をするのもしかたない)という人がいますが、それは危険な考え方です。英語の学習の際は、嫌でも自他の区別を覚えなければならず、日本人が「勝手に」自他を変更してよいということにはなりません。母語の場合は、自他を意識する機会がないから気が緩む、それに伴い不自然な変化が起こることもあるかもしれないが、それはやむをえないと後ろ向きに考えるよりも、母語である日本語を習得する際に、自他意識をしっかり身につけておけば、外国語の学習に、その感覚が生かせるというふうに前向きに考えるほうが健全です。
参考文献
横井忠夫(2017)「自動詞・他動詞相互転用の原因」『語彙・辞書研究会 第52回研究発表
会予稿集』三省堂
中川秀太
文学博士、日本語検定 問題作成委員
専攻は日本語学。文学博士(早稲田大学)。2017年から日本語検定の問題作成委員を務める。