前回は動物に対し「さん」をつけることについて述べました。今回は次のことを考えます。
最初の「お~さん」の言い方には、具体的には「おウマさん」や「おサルさん」があります。「おウマ」「おサル」という形もあります。ウマとサルに「お」がつく要因について、呉(2010)に「ウマは神社に奉納されて
前回、悪さをする動物として取り上げた「キツネ」は、神の使いとしておそれうやまわれる対象でもあり「おいなりさま」または「おいなりさん」と呼ばれます。本所七不思議について記した宮部みゆき氏(1960~)の作品から用例を示します。「おキツネさん」の形もともに使われています。
緑の茂みの内側には、お稲荷さんが鎮座していました。石造りのおキツネさんの顔などを見ると、かなり古いもののようですが、鳥居の朱の色は真新しい。
『平成お 「タヌキ」が祭られる神社でも「お~さま・お~さん」の形が用いられることがあります。たとえば東京・神田の
かつて(近世以前)、民衆の信仰対象とされていたオオカミにも「お~さま」の形があります。ただし、それは「おオオカミさま」ではなく「おイヌさま」(「おイヌ」とも)という形をとります。東京都青梅市の
それでは次に「~ちゃん」の形を持つ動物に話を移します。たとえばウサギのことを「ウサちゃん」というように、顔形や動きがかわいらしい動物に対し「ちゃん」がつくのではないかと推測してみます。すると動物園の人気者であるパンダにも、その資格があり、動物園で「パンダちゃん」と呼ぶ人がいることに気がつきます。レッサーパンダが人気の某動物園に出かけた際、人々がどう呼ぶのかを聞いていたところ、「レッサーパンダちゃん」と呼ぶ人のほかに「レッサーちゃん」と呼ぶ人も確認できました。「パンダ」は、一般にジャイアントパンダを指すため、「パンダちゃん」もジャイアントパンダを呼ぶのに使われます。それゆえ「ジャイ(アント)ちゃん」という呼び方は出てきません。一方、レッサーパンダには「パンダちゃん」が使えないため、「レッサーちゃん」が短い言い方として生み出されました。
前回扱った「~さん」との大きな違いは、その動物をかわいがる、慈しむ気持ちがあるときに、大人が大人どうしの会話にも「~ちゃん」を使うという点です。これは、子ども(およびその保護者)が主な使用者である「~さん」とは異なります。
最後に、もっとも日本人にとって身近な存在だと言えるであろうイヌとネコ、この2者の呼び方を検討します。イヌには「イヌちゃん」の形がなく「わんちゃん」と呼ばれ、ネコには「ネコちゃん」の形があります。「わんちゃん」の「わん」は、イヌの声を模した語です。以下に「わん」とネコの鳴き声を表す「にゃん」の関連語をまとめて示します。
イヌに「ちゃん」をつけると「ぬちゃ」という音の連続が生まれますが、このようにナ行の音にチャの音を続けると「にちゃ」「ねちゃ」など粘りつくような印象が出ます。一方「んちゃ」のほうは「けんちゃん、しんちゃん、あんちゃん、らんちゃん」など、人の名前の愛称として多用されます。ならば「わんちゃん」にしようという気持ちが働いたとしてもおかしくなさそうです。
「わん(こ)ちゃん・ネコちゃん」の特徴は、これらがよそのうちのイヌ・ネコを指すのに使える点です。ふつうは自分のうちのイヌ・ネコには名前がついているので「わん(こ)ちゃん・ネコちゃん」は使いませんが、よそのうちのイヌ・ネコについては「お宅のわん(ネコ)ちゃんはいくつ(何歳)ですか」のように用いられます。「お宅のイヌ(ネコ)はいくつ(何歳)ですか」よりも柔らかい表現になります。そして特に「わん(こ)ちゃん」について注目されるのは、イヌを指す「わんわん」「わんこ」が幼児語であり、「わんちゃん」についても『大辞泉 第2版』のように幼児語と明記する辞書があるものの、現実には「わん(こ)ちゃん」は大人にも用いられるということです。ネコの場合は「にゃん(こ)ちゃん」に幼い響きを感じるなら「ネコちゃん」を選ぶということが可能なのに対し、イヌは「イヌちゃん」が使いにくいため、「ちゃん」づけするなら、「わん(こ)」を使わざるをえない事情がもととなり、「わん(こ)ちゃん」は単純に幼児語という扱いでは済ませられない存在となりました。
近世以前の人と比べ信仰心の薄くなった現代人が新たに「お~さん」「お~さま」を生み出すことはないでしょう。それに対し「~ちゃん」は、本コラムで扱った動物に限らず、その使用が広がる可能性を持っています。たとえば「コアラちゃん」という言い方をする人がいるようにです。鳥など哺乳類以外の場合も含めた形で「~ちゃん」の広がり具合を確かめたいところです。
注 オオカミ信仰については、小倉美恵子『オオカミの護符』(2011年、新潮社)に詳しく書かれています。なお江戸時代の生類憐れみの令で有名になった「おイヌさま」という言い方は、イヌそのものに対する敬称であり、オオカミを指す「おイヌさま」とは別物です。
参考文献 呉智英(2010)『言葉の煎じ薬』双葉社
中川秀太
文学博士、日本語検定 問題作成委員
専攻は日本語学。文学博士(早稲田大学)。2017年から日本語検定の問題作成委員を務める。