日本語クリニック

 現代語では「人がいる」のように生き物には「いる」を使い、そこに「おる」を使うのは古風ないし西日本的であるとされます。ただし、「今レポートを書いており、手が離せない」という場合は「いる」ではなく「おる」の連用形が用いられます。「いる」を基本としつつも、活用形によっては、「おる」が現れるということです。以下、その分布を検討します(紙幅の都合上、使い分けの要点に話を限定します)。
「いる」「おる」はともに自動詞です。「いる」はア行上一段活用、「おる」はラ行五段活用の動詞です。各活用形は以下のようになります。

いる
い|い|いる|いる|いれ|いろ・いよ
おる
おら・おろ|おり・おっ|おる|おる|おれ|おれ

※縦の|で未然形、連用形、終止形、連体形、仮定形、命令形を分けています。

 「おる」は、太字で記した活用形に現れます。たとえば否定の「ず」をつける場合、「いず」ではなく「(兄弟は)おらず」を使います。ただし以前は「いず」の形も使われました。

 艦の中はわずかの人しかいず静かでひっそりとしていた。

鈴木貫太郎(1868~1948)『鈴木貫太郎自伝』

 仲の良い近所の友だちも年の近い兄弟もいず、一人ぼっちだった私には

柴田翔(1935~)『されどわれらが日々』

 連用形は「しかし、母がい、小稲がいた」(小島政二郎(1894~1994)『円朝 上』)のように、かつては「いる」の連用形「い」が使われましたが、現在は「おり」が用いられ、この場合、「おる」に古風・西日本的という語感は伴いません。また、「て」を用いた「母がいて」の形もあります。連用形に「て」「た」をつける場合は「いた」「いて」となるため、「おった」「おって」の出番はありません。
 次に「ている」「ておる」という補助動詞としての用法を確認します。未然形で否定を表す場合「見ていない」を使い、「見ておらない」とはなりません。「ず」とともに使う場合は「見ていず」ではなく「見ておらず」の形が使われます。ただし補助動詞にも、以前は「~ていず」の形がありました。

 籍もはいっていず、小学校へもあがらずにいたのでした。

田辺貞之助(1905~1984)『江東昔ばなし』

 山小屋にいて、新聞一種しか取っていず

大岡昇平(1909~1988)『成城だより 下』

連用形は、「~ており」が頻繁に用いられますが、以前は「~てい」も使われました。

 富田川は四百年前の当時、もっと西方にながれてい、現在の川の上には

池波正太郎(1923~1990)『英雄にっぽん』

 「てい」より「ており」が多数派になった要因について、榊原(1989)に「短かくて、簡単にすぎるからでしょうね。『てい、』という形は、それと短かすぎて間が持てないということも言えると思います」という指摘があります。現在は、中止を表す用法は「ており」が標準的とされます。加えて「ていて」の形も使われます。

 日韓両政府間のやりとりが活発になっていて、ニッポンの外務省幹部の1人は

2023年1月18日、NHK総合テレビ

 この「~ていて」については、NHKが1990年12月の『放送研究と調査』40-12で取り上げ、「昔は「~ており」が多用されていたが、それが「~ていて」になったようだ」と述べたうえで、「「~ており」よりはよいが、この形は論理的につながらないセンテンスを無理につないでしまう場合が多く、文章も長くなってしまうので乱用を避ける」とまとめています。理屈から言えば「~てい」が望ましいにもかかわらず、それが使いにくいために「~ており」が代わりに使われるものの、謙譲語的な存在の「おる」を使うことにも抵抗があり、そこに窮余の策として「~ていて」が現れたという事情がくみ取れます。
 最後に敬語の場合を見ます。「いる」は「います」、「おる」は「おります」となり、後者のほうが丁重な言い方となり、単独の場合に見られた東西差が消えます(西日本の人でも「おります」のほうが「います」より丁寧に感じるようです)。尊敬語にすると「いられる」が一般的ではなく、「おられる」や「いらっしゃる」が使われますが、「おられる」については、「おります」が謙譲語的なのにもかかわらず、「おる」に「れる」がつくと尊敬語として使うということに違和感を覚える人と覚えない人とがいるため、「いらっしゃる」などを使うほうが無難であるとも言えますが、「いらっしゃる」は話しことば的な語感があるため、書きことばの時には困るという向きもあります(菊地(1996))。こんな時「いられる」が使えればよいと思いますが、この形も廃れました。

 島崎藤村さんはいつも白足袋の綺麗なのを穿いていられた

鏑木清方(1878~1972)『明治の東京』

 先生がまだ東京にいられる頃に、舌癌という診断で手術をされた事があったが、

吹田順助(1883~1963)『分水嶺』

 結果的には、「いられる」は受け身ないし可能の意に、「おられる」は尊敬の意に使うという役割分担が成り立つと見なしうる状況にあります(いわゆる、ら抜きを採用すれば、「いられる」は受け身のみ)。
 「申す」や「参る」について、金田一(1985)はこれを謙譲語とはしません。これらは「昔の武士は、肩を怒らし、袴を付け、威儀を正して行動することをこれつとめていた」ことによる「荘重語」(今で言う丁重語に相当します)であるとし、「申される」「参られる」は、堅苦しい言い方の「申す」「参る」に「れる」をつけて尊敬語にしたものであるとして不適切であるとは考えていません。このような観点から「おる」を見直してみます(金田一氏の書いたものには「~ておられる」が出てきます)。「おる」は、西日本の人にとっては日常語であっても、(特に現在の)東の人間からすると、日常語からは外れ、よそ行きの堅苦しいことばに感じられるがゆえに「いる」の代わりに「おる」を使うというわけにはいきませんが、堅苦しい言い方であるということは、「おります」のように目上の相手に対して丁寧にことばを発する際に使うことばとしては適切な物言いとなり、別の言い方も見当たらないから使うという判断に傾きます。さらに、尊敬語の場合にも、堅苦しさを求める(特に書きことばにおいて)人にとっては「おられる」が適切な言い方に感じられます。それに対して、今の世の中に武士風の堅苦しい言い方は不要であり、かつ「いらっしゃる」や「おいでになる」のような別の適切な言い方があるではないかと見なす人にとっては、「おられる」は不適切であると判断されます(書きことばには、敬語を使わないという方策もあります)。このように、武士風のことばであるという特徴は、「おられる」を認める理由にも認めない理由にもなりうるというのが筆者の見立てです。
 いまさら詮ないことではありますが、以上の例を見てきて感じることは、「いる」の活用形「い」「いず」「いられる」が万難を排して十分に定着してくれていたならば、現代人が「いる」と「おる」の使い分けに悩むこともなく済んだであろうに、ということです(「おる」を使うにしても「おります」のみに抑えるetc.)。ことばとは、ままならないものだということを痛感します。

金沢(2006)は「過去や過去完了の表現はなされていなく、過去のことでもない」という言い方を「なく中止形」と呼び、これは外国人学習者はともかく母語話者にはまれであると述べます。さらに、補助動詞を用いる場合、「これまでは「~ておらず、…」の形が規範的であったとは言えようが、日常使う表現(使用語彙)の中に動詞「おる」も助動詞「ず」も持たない世代が現在育ちつつあることを考えると、これまでの規範であったはずの「オラズ」形の方を誤用と捉えるような、いわば「逆転」現象が起こるのもあながち遠い将来ではないのかもしれない」と予測します。「おらず」が消え、「~ており」の代わりに「~ていて」が使われ、さらに丁重な物言いが徹底的に嫌われて「おります」が廃れることになれば、標準語から「おる」が消え去ることとなります。

参考文献
金沢裕之(2006)「言語変化への一視点」『日本のフィールド言語学』桂書房
菊地康人(1996)『敬語再入門』丸善株式会社
金水敏(1996)「「おる」の機能の歴史的考察」『山口明穂教授還暦記念 国語学論集』明治書院
金田一春彦(1985)「日本人と日本語」『月刊言語』14-12
榊原昭二(1989)『語感問答』ぎょうせい
坂梨隆三(1977)「居られるという言い方について」『松村明教授還暦記念 国語学と国語史』明治書院
三上章(1955)『現代語法新説』刀江書院

中川秀太

文学博士、日本語検定 問題作成委員

専攻は日本語学。文学博士(早稲田大学)。2017年から日本語検定の問題作成委員を務める。

最近の研究
「現代語における動詞の移り変わりについて」(『青山語文』51、2021年)
「国語辞典の語の表記」(『辞書の成り立ち』2021年、朝倉書店)
「現代の類義語の中にある歴史」(『早稲田大学日本語学会設立60周年記念論文集 第1冊』2021年、ひつじ書房)など。

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